2020-07-18

シュティルナーはほんとうの反逆者――まさしく色あせぬ反逆者――でありつづけた。

シュティルナーの思想が、いかに当時の哲学者に受け入れられきたか?

現代思想においていかなる意味を持つのか?

ドイツの哲学者、ベルント・A・ラスカ(独wikipedia)の論文を訳しました。原文はこちら

Blue Calligraphic Lines on Dark Blue by Jiro Yoshihara

シュティルナー、色あせぬ反逆者 概要

いかにマルクスとニーチェはマックス・シュティルナーを抑圧したか、そしていかに彼が知的に生き延びたか

マックス・シュティルナー? カール・マルクスに拒絶された哲学的プチブル? アナーキスト、エゴイスト、ニヒリスト、ニーチェの粗野な先駆者? そう、彼だ。哲学の世界で非常に悪名高いために、せいぜいついでに言及されるくらいの彼だが、現在でさえ著名な後継者たちが受け取ったと主張される知的なダイナマイトを持っている。

シュティルナーの名をあげると「私は唯一者だ」「無の上に自己をおいた」「すべては私と無関係だ」といったキャッチーな言葉が連想される。このことが彼を抑制されざるエゴイスト、ナイーブな唯我主義者の縮図であるように見せる――いや、彼は忘れられてはいない。彼の本、「Der Einzige und sein Eigentum」(1844)――彼はただこの一冊を書いた――は今日でさえ「Reclam’s Universalbibliothek」(英「The Ego and His/Its Own」1907…1995)として見つけることができる。いわば、彼はエゴイズムの古典的著者なのだ。しかし、だからといってだれもが彼に現在的関連性があると考えているわけではない。

一方で、私の論文は、彼の時がたった今きたのだと主張する。この宣言の意味は、彼の著書が与えたインパクトの物語をとおしてもっともよく伝えることができるだろう。これは、とくにその重要な道筋のなかで奇妙なほど秘密にされてきており、ほとんど知られていないのだ。この説明ではまた、次のことを理解できるようにする。シュティルナーの特定の中心的概念が、一世紀半以上あとの現代まで時代との関連性をもたなかったこと、そしてなぜいま時代と関連を持つべきか。

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シュティルナーは、彼の著書「唯一者とその所有」を、1840年代の左派ヘーゲル主義の文脈のなかでつくりあげた。聖書批判であった初期を除けば、この哲学思想派はドイツにおいてはじめて一貫的啓蒙主義的無神論(「真」/「純粋」批判)と実践(行動の哲学)を発展させようとした。その指導的理論家はルートヴィヒ・フォイエルバッハブルーノ・バウアーであり、一方に民主主義と社会正義のための実践的で政治的闘士として有名となったアーノルド・ルーゲモーゼス・ヘスがいた。

マックス・シュティルナーは、当初はブルーノ・バウアーを取り巻く集団においてむしろ目立たない人物だった。結果として彼の「唯一者……」のなかの左派ヘーゲル主義思想全体に対する痛烈な非難は万人を驚かせた。ポストヘーゲル主義の新啓蒙主義の無数の反対者たちとは異なり、シュティルナーはフォイエルバッハとバウアーの哲学を、元神学者の無神論だから批判したのではなく、むしろ知的一貫性の欠如のために批判したのである。彼らはたしかにヘーゲルのすべてを統合する体系から逃れることになんとか成功したものの、「キリスト教の魔法陣」を捨て去ることに真に成功したわけではなかった。シュティルナーは愚弄するように結論づけた:「われわれの無神論者たちは敬虔なる人々である」

批判の対象となった者たちは、シュティルナーは断固としてその道、批判の道を辿っていくことを認めた。彼らの目には道徳的虚無主義に見えるためにその成り行きに萎縮したにせよ、シュティルナーの大胆さを称賛さえした。

内心で魅了され――シュティルナーは「私の会ったなかでもっとも独創的で、もっとも自由な著述家だ」、とフォイエルバッハは兄弟に書いた。ルーゲ、エンゲルスらは、同様の感銘を受けたことを無意識的に証明している――公然とした拒絶、距離を取る、あるいは沈黙のかたちで。この知的アバンギャルドはもっとも大胆な同僚に、アンビバレントに、そして狡猾に反応した。だれもシュティルナーの新啓蒙主義を超えたステップのあとについていこうとはしなかった。彼の「ニヒリズム」は、単に啓蒙思想の結果ではありえなかった。だれもがひどく恐れたために、シュティルナーが「ニヒリズムの超越」の道をすでに開いたことを理解できなかった。

シュティルナーの一連の思想への自動的拒絶は、「唯一者……」ののちに続く受容(反発と欺瞞) re(pulsion and de)ceptionの大部分において特徴的であった。しかし、この本はその最初の半世紀は忘れ去られていたのである。シュティルナーの思想は、1890年代になってはじめて、次の世紀まで続くルネサンスを経験した。しかし、彼はつねにニーチェ、そのスタイルとレトリック(「神は死んだ」「私、この最初の不道徳者」……)が全世界を魅了したニーチェの影に立つことになった。

一部の思想家は、シュティルナーはニーチェの頑迷な先駆者であると考えていたにせよ、ニーチェよりもシュティルナーがよりラディカルであると考えていた。しかし、彼らはシュティルナーと公然と対立することはなおざりにしていた。エトムント・フッサールは一度、少数の聴衆に向けて「唯一者」の「魅惑的な力」について警告していた――しかし彼の著作では一度も言及しなかった。カール・シュミットは若い頃にこの本に深く感銘を受けていた――そして独房(1947年)の惨めさと孤独のなかでふたたびシュティルナーに「取り憑かれる」まで沈黙を保った。オーストラリアのマルクス主義理論家、マックス・アドラーは全生涯を通じて私的にシュティルナーの「唯一者」に取り組んだ。ジョージ・ジンメルは、シュティルナーを本能的に「風変わりで独特な個人主義」として遠ざけた。ルドルフ・シュタイナーは、もとは熱心で啓蒙されたジャーナリストだったが、シュティルナーに触発された。しかし、彼はすぐさまシュティルナーが「奈落の底」に導いていると確信して神智学に改宗した。最後に、シュティルナーが先駆者であったとしばしば指摘されるアナーキストは、沈黙を守り距離を取る(たとえばプルードン、バクーニン、クロポトキン)か、アンビバレントな関係を維持した(ランダウアー)。

現代の著名な哲学者たちは、不可解なほど悪魔的であると受け止め、「唯一者」の主要な概念に直面して身震いを表明する。レシェク・コワコフスキーは、シュティルナーは「ニーチェでさえ弱く見当違いに思わせる」のであり、反論できないとした。それでもなお、あらゆる手段で彼を払い除けなければならないとした、なぜなら彼は「私たちに自らの倫理的価値観を与える唯一の道具:伝統 を破壊する」からである。シュティルナーの狙いである「疎外の破壊、つまり純粋者に戻ることは文化の破壊であり、動物状態……前人間的状態への回帰にほかならない」。ハンス・ハインツ・ホルツは、「シュティルナーのエゴイズムは、それが実現されるとなれば、人間種の自己破壊を導くだろう」と警告する。

同様の終末論的な恐怖がおそらく、若年期のユルゲン・ハーバーマスをして「シュティルナーの憤怒の不条理さ」を怒りをもって非難させしめた――そしてそのときから二度とシュティルナーについて言及することはなかった。左派ヘーゲル主義についてのテキストにおいても。その哲学キャリアの最後に、自らを元シュティルナー主義者と見ていたテオドール・アドルノは、「左派ヘーゲル主義の立場で」シュティルナーはほんとうに「うっかり秘密を漏らしてしまった」唯一の存在だと密かに語ったが、彼の作品で言及することは決してなかった。ペーター・スローターダイクは、シュティルナーについてこれらに触れることはなく、「すばらしい」マルクスが「結局、シュティルナーのひとつの思想に対して、数百ページにわたって憤怒した」ことに頭を振っただけだった。

カール・マルクス:ニーチェと同様、時代を形成する影響力があるために、彼のシュティルナーに対する反応は強調する必要がある。マルクスは1844年の夏までフォイエルバッハが「真に理論的革命を成し遂げた唯一の存在」であると信じていた。1844年10月の「唯一者」の登場は、この見解の核心をゆさぶるものだった。というのも、マルクスはシュティルナーの批判の深さと含意をきわめて明晰に理解したからである。エンゲルスを含む他の人々ははじめにシュティルナーを称賛したが、マルクスはそのはじめから彼を滅ぼすべき敵であると見なした。

マルクスはもともと、「唯一者」の書評を書こうと計画していた。しかし、彼はすぐにその計画を諦め、かわりに他者(フォイエルバッハ、ブルーノ)の反応を待つことにした。彼の反論的作品である「聖家族」(1845年3月)において、シュティルナーは省略されただけだった。同年11月、フォイエルバッハの「唯一者」批判が登場した――そして同時に、シュティルナーも見事な回答をした。マルクスはそこで介入するときだと内心感じた。「唯一者」を攻撃するために、彼は依頼されていた重要な仕事を中断した。彼のシュティルナー批判「聖マックス」は、「哲学者のなかでもっとも薄い頭蓋骨」に向けられた毒舌に満ちており、結果として「唯一者」それ自体より長いものとなった。しかし原稿が完成したあとも、マルクスは自分の選んだ戦術にたいして心の揺れを感じていたのだろう。このシュティルナーへの批判は結局、印刷されることはなかった。

彼の内的に起きたシュティルナーとの論争の結果、最終的にフォイエルバッハに背を向けることとなった。フォイエルバッハのときとは違い、シュティルナーの批判に免疫をもつよう哲学をデザインしなければいけなかった:それがいわゆる史的唯物論である。しかしマルクスは当時、彼の新しい理論を単に間に合わせの取り決めとしかとらえていなかったようである。というのも、彼はそれを「聖マックス」と同じ引き出しにいれたままだったからだ。いずれにせよ、彼はシュティルナーとの公的な議論を避けることを望み、政治生活に身を投じ、プルードン、ラッサール、バクーニンらとの確執へと至った。結局、彼は「シュティルナー」という問題を完全に抑圧することに成功した――心理的な意味でも、理論史の意味でも。

抑圧の領域におけるマルクスの先駆的実績の歴史的影響は、多様な思想を持つマルクス主義の研究者が、シュティルナーを調査して彼のマルクスへの影響を評価するときに明らかとなる。驚くほど例外なく、彼らは批判なくエンゲルスの1888年の有名な著書「ルートヴィヒ・フォイエルバッハとドイツ古典哲学の終焉(フォイエルバッハ論)」における表現を受け入れるのである。すなわちエンゲルスは著書のなかでシュティルナーを単に「ヘーゲル学派の崩壊過程」における「珍奇なもの」と軽く取り扱い、その座を奪ったものとしてフォイエルバッハを称賛するのである。

この表現は、年代学と事実においてひどく間違っているのだが、たちまち世界的に受け入れられたものとなり、マルクスの「聖マックス」がよく知られるようになった1903年においてもそのままであった。シュティルナーの「唯一者」に対するマルクスの反応は、まさしく十分にきめ細やかに参照されるが、今日でさえマルクスの唯物史観の概念におけるシュティルナーの決定的役割――そしてマルクスの確立した優越性は疑問にならないせよ、シュティルナーの復権に行き着くこと――を本のテーマとしたのは例外的な著者(アンリ・アルボン、ウォルフガング・エスバック)のみである。しかしこれら作品でさえ数十年無視されてきたのであり、専門集団で躊躇なく議論されるようになったのはつい最近のことである。

要約しよう:マルクスのシュティルナーに対する一次的抑圧(心理学的とも歴史的とも理解できる)は二次的抑圧に続いたのである。あらゆる思想を持つマルクス研究者たちにおいて、証拠はすべて反対を示すにも関わらず、マルクスの一次的抑圧を無意識的に無視し(最近ではルイ・アルチュセールによって印象的な形でおこわなれた)、そうすることによって自分自身の一次的抑圧という課題を遠ざけたのである。

フリードリヒ・ニーチェは、シュティルナーの第二の偉大な「後継者」であり、シュティルナーの「唯一者」が登場した同じ年(さらに同じ月)に生まれた。しかし、ニーチェの青年時代には左派ヘーゲル学派の思想は真剣には受けとめられておらず、三月前期Vormärzの追放された講師と暴動的ジャーナリストの狂気と呼ばれていた。自分の学生の「老衰化」に悩まされた若きニーチェは、対称的に、書簡のなかで、まさにその1840年代を自分自身が喜んで活躍できたろう「知的精神に満ちた時代」と称賛した。左派ヘーゲル主義者の老練者と直接連絡をとったことも未来の哲学者のターニング・ポイントとなったのである。1865年10月、ニーチェは、当時のブルーノ・バウアーを中心とするサークルに所属し、シュティルナーの友人であったエデゥアルド・ムシャックと長く集中的に出会うこととなった。その即座の結果は深い知的危機であり、混迷した「言語学とショーペンハウアーの決定」であった。

ニーチェはいくつかの成功でこの決定的な知的な転換点の痕跡を消そうとした――このことがさらに重大さを増すのである。

ニーチェの場合は、あらゆる点でマルクスと事柄が違っていた(肯定的実証の問題についても)が、そこには突出した影響力を持つ思想家へ発展していく上での根本的な類似点がある:すなわち若年期におけるシュティルナーとの対立、(一次的)抑圧、初期のイデオロギー的傾向を強める新しい哲学概念。この哲学は魅力的となる。なぜなら、「人間の少数派からの逸脱」という現代のより申告な問題に関してはまだ到来していない(シュティルナーに要求される)議論を鎮圧することができるからであり、同時に具体的で実用的解決策を示唆するからである。

マルクスがそうであったことは、ニーチェについても同じである。 一次的抑圧の後に集団的二次的抑圧が起きた――すべての学派のニーチェ研究者において。ただし、これはマルクス研究よりもより柔軟な形で表現された。シュティルナーとニーチェの記述の比較は色濃く描かれたのである。シュティルナーがニーチェの先駆者であることを主張し、同時に一方にはそうではないと主張した者がいた。ニーチェが「唯一者」を知っていたかという問題提起がなされ、それは確証も否定もされなかった。この曖昧な答えからは結論は導き出せなかった。

もっとも過激な主張は、エドゥアルト・フォン・ハルトマンによって提唱された:ニーチェはシュティルナーの盗作者であると彼は言ったのである。ニーチェの実際の功績を理解するものはだれでも沈黙することを選んだ。

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哲学者たちは、啓蒙に関する野心をもつのであれば、つねにその時代の反逆者であった。それにもかかわらず、遅かれ早かれ、ほとんどは死後に、彼らの教えは人文科学の既存の構造に統合されていった。しかし啓蒙主義への啓蒙された批判家であるシュティルナーの場合は、その表面的な外見とは反対に、いまだに起きていない。自らをポストイデオロギー的であると空想し、知的相違を時代遅れであると実際に考える私たちの時代においてさえ、シュティルナーはマルクスやニーチェとは対照的にほんとうの反逆者――まさしく色あせぬ反逆者――でありつづけた。

この挑発的な言葉から彼の「唯一者」の現代的――時事的――なヒューリスティックな有用性が生まれる。私たちを彼と彼の影響と関連づけることは、過去150年に起きた啓蒙計画の奇妙な衰退を理解する上で有用である――そしておそらくその蘇生を刺激する方法ともなるだろう。

啓蒙――今日、この概念を時代に関連づけようとする者は、ナイーブで哲学史に無知であるとほとんど確実に見なされる。結局のところ、私たちは啓蒙されて長い時間が経っているのだといわれている。特に啓蒙主義については。この概念は過去の時代に属するもので、その二分法は長いあいだ次のように認識されていたのだ。それは一見楽観的だが、根本的に間違った人間本質のイメージのために、作用と反作用として、20世紀の大惨事を招く致死的なイデオロギーを持っていたのだと。

この歴史的教訓は、20世紀において19世紀の啓蒙計画を続けることを望んだ者たちすべてに受け入れられ、最終的には1930年代、マルクスとフロイトに影響を受けた「批判的社会理論」を創設した人々によってさえ認められた。しかし、数年後には致命的「弁証法」はいかなる啓蒙計画においても本質的なものであると結論的に述べられ、それとなく放棄された。

啓蒙の最後の地下的な野望は、1968年頃に短期間勃発したが、ポストモダニズム宣言によって即座に終わることとなった。啓蒙計画であるモダニズムは、信用を失い時代遅れとなり、いまや公的に永久に追放されることとなった。啓蒙主義の数世紀の最終的結果はこのように書かれる:もはや啓蒙されえないということを知るということで、我々は啓蒙されているのだ。「新しい人間」は、マルクスのものでもニーチェのものでも一度も現れなかった;古き勝利のアダム。そのときから、新しい人間を求めることは軽蔑され、非常に危険であるとさえみなされるようになった。

実のところ、啓蒙運動の蘇生についての今日のあらゆる思想は、芽のうちに摘まれてしまう。なぜなら、大衆に訴える最後の啓蒙思想家であるマルクスとニーチェの主要な思想は、20世紀の歴史的経験の結果であると徹底的に矮小化されているからである。この思想の失墜はまた、偏在する非合理主義の観点から、人類種が――そして人類のもっとも先進的な部分についてさえ――すでに「未熟さからの出発」を果たした、すなわち人間理性の可能性についての最後の言葉はすでに語られたのだ、と信じることのできない絶望者たちをあとに残した。

しかし、今日までの支配的啓蒙思想の破綻は、同様にチャンスを開いたのである。マルクスとニーチェのオーラが色あせた今、哲学史においてこれまでほとんど避けられてきた場所まで辿り着くことが可能であるべきだろう。その衰退がはじまった場所――1840年代の左派ヘーゲル主義者たちのラディカルな啓蒙思想に基づく議論から、シュティルナーの思想が最初に現れ、それから本質的にそれへの反応として、マルクスとニーチェの思想として現れたところ。

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シュティルナーは彼の時代のラディカルな啓蒙主義思想家を批判した。それは彼らが「神を殺した」だけであり、「我々の外にある他世界」を捨て去っただけだからだ。なぜなら彼ら、「敬虔なる無神論者たち」は、それにもかかわらず宗教的倫理の基盤である「我々の中にある他世界」を保持しつづけ、これをただ世俗的な形で実現したにすぎないからである。数千年の鎖からのほんとうの解放はしかし、他世界もまた、もはや存在しないときにのみ実現されるのだ、とシュティルナーは述べる。

「我々のなかの他世界」という言葉でシュティルナーは、フロイトが1923年に「超自我」という適切な名前で導入した精神的権威を正確に意味している。超自我は幼年期の文化化の本質的結果として個人の内部に受け継がれる。それは人生の早い段階で非合理的な方法でもたらされ、その後には非常に限られた範囲でしか影響を受けない、価値観に基づく態度の隠れ家でありつづける。個人にとっては自律的「自己」の中核であると受けとめられているにせよ、超自我は実際のところ他律性の縮図である。

シュティルナーは、前・非合理的に誘引された超自我による行動統制によって特徴づけられた人類の発展段階は、啓蒙プロセスの結果、自己統制、言うなれば、個々人の真のオートノミーによって特徴づけられる新しいものへと統合されると考えた。

しかしこの思想は、それが認識されたところではどこでも、依然として激しい防御反応を生んだのである――フロイト、この啓蒙された人間でも同様であり、彼は生物学的に永遠に不可避に埋め込まれた超自我を見つけることを望んだ。フロイトはこのモットーをして精神分析学を人気にした:「イドがあるところに自我があるべきだ」(注意:超自我とともにある自我)。「超自我のあるところに自我があるべきだ」という代替案をつくろうとした少数の精神分析学者は容易に無力化された。しかし、それは20世紀啓蒙主義の完全に非弁証的な自己麻痺についての別項である。

1 Comment

  1. ニーチェについては彼の超人思想が啓蒙的であるという解釈で大丈夫でしょうか?現代では啓蒙は時代遅れであり、ニーチェは道徳を破壊した上で超人というあるべき姿を啓蒙したことがモダニズム的であるということなのか。それに比べてシュティルナーは啓蒙せず、あらゆる道徳を破壊しただけであると。こう考えるとシュティルナーはポストモダン思想の先駆者ととらえれるのでしょうかね。シュティルナーをまっとうに批判した人、できる人はいるのでしょうか?思想家たちが彼について沈黙するのは、彼らも結局啓蒙したいだけなんじゃないかと思ってしまいます。

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