2020-05-31

読者さんをだいぶ待たせてしまったな、と思う。

前半を書いたのはもう2年くらい前だ。後半を書くのが、意外と難しい。

第一に、記憶が新しいとなかなか整理がつかない。昔読んだ本をピックアップするのは簡単だけど、最近の記憶からだといろんな本がちらついて特定できない。

第二に、自分の読んだ本なんて何の意味があるのか? という虚無を感じる。私はたいした人間ではないから。でも、長く記事を待ってる読者さんもいるので、ここは書いてしまわないとと思った。

最近、「永山則夫」という元死刑囚にハマっていたのだが、彼と私には共通点がある。それは文化資本がほとんどないのに独学で思想に行きついたことだ。たとえば彼はボンボン左翼のほとんどが生涯読み切ることのできない「資本論」を読み切った。私は……75%くらいは読んだ笑

ともあれ、私のような独学者は永山のように「例外的」であり、道を示す必要はあると思う。

「孤独」アンソニー・ストー

社会とは万人に「陽気なロボット」となることを求める。いまは個人主義者の私も、かつてはそうなるよう努力していた。

しかし、スーザン・ケインの「内向的人間の時代」などの影響で、内向的な人間は病気ではないし、矯正すべきでもないということを知った。

それから学生時代の私は「孤独」に執着した。当時の私は文化資本などほとんどなかったから、「孤独」に肯定的な価値があるとはまったく知らなかった。

とにかく、「孤独」が自分のなかのテーマとなり、その関係の本を読んだ。孤独に関してははじめは心理学と哲学で、次には社会学や経済学に発展していったが、最初期に読んだ一冊がこのフロイト派の心理学者の本である。

アンソニー・ストーの文章は平易で読みやすい。そして、ストー本人の記述よりも、彼が孤独に関して引用した内容がおもしろい。

たとえばグレアム・グリーンはこう書いている。

ものを書くことは治療法の一形態である。書いたり作曲したり描いたりしない人はみんな、いったいどうやって狂気や欝、人間の境遇にはつきものの追い詰められるような恐怖から逃げおおせるのかと、私はときどき不思議に思う。

彼の本は「孤独」以外に「創造のダイナミクス」や「フロイト」を読んだ。これらの本を通じて、私は「孤独」が「創造」とほとんど同質であることを知った。

そして私は孤独=創造を生きなければいけないことを、なんとなく悟ったというわけだ。

「存在の耐えられない軽さ」の影響で、ベートーヴェンの「Es muss sein」が好きだった。つまり、「そうでなければならない」。

私は孤独に運命づけられていることを知って、いまもそこから逃れることができず、隠者生活をしているのだ。

「すばらしい新世界」オルダス・ハクスレー

私たちの人格は管理され、「孤独」の道は現代では隠された道となっている。

私たちの想像する以上にこの社会はディストピアであり、したがってフィクションの方がむしろ「残酷な真実」ということがある。

そんな一冊がハクスレーの「すばらしい新世界」だ。

「いいかい、孤独がいけないという警告は少なくとも二十五万回はきかされてきたんだからね」
「われわれは人びとが孤独を憎悪するように仕向ける。そして、孤独を経験したりすることがほとんど不可能なように人びとの生活を設計してある。」

この本は数回読んだきりだが、そこで書き抜いた言葉が頭にずっと残っている。

「ぼくはむしろ自分のままでいたいんだ。不機嫌な自分のままでいたいんだ。いくら陽気になれたって、他人の真似なんてしたくない」
「個人が感動すれば、社会は動揺するのよ」

「最適な人口は、氷山になぞらえて構成される――つまり、九分の八が水面下、九分の一が水面上というわけだ」
「それで水面下の連中は幸福なんですか」
「水面上の連中より幸福だよ。」

この本は現代社会の階級構造、あるいは大衆心理を素描する上で、この上なく成功していると感じる。

ちなみにハクスレーの本では、他に「永遠の哲学」がおもしろい。

「学校・医療・交通の神話―イバン・イリイチの現代産業社会批判」 山本哲士

近代社会の幻想を打破する上で、学校批判は欠かせない。

学校は必要不可欠であるとされる。その存在は公益のためであり、本人のためである。学校は楽しく、良い思い出を与えるとされる。しかし、現実には監視、懲罰、管理、選別、洗脳、権威主義、コンフォーミズムで満ちている。

まさにディストピア的だ。

私も「学校は良いものである」と信じ切っていた。

学校はいつの時代もあったし、善であり、学校が私にとってひどく苦痛で抑圧的な場所だったとしても、それは「私の学校」、あるいは「私」が悪かったのだ……。

これはいま考えると「神への信仰」に近い。神はいつの時代もあり、絶対善であり、彼が存在しながらこの世に悪がはびこるのは、なんらかの「特別な事情」があるのだと合理化する。

そういった「神話」を解体するのがイリイチの試みだ。

教育は新しい世界宗教になっている。支配階級から軍人、そして労働者階級にまで期待を抱かせる救済の宗教である。世界的宗教は偉大な文化が衰退するときに興ると、歴史家トインビーは指摘したが、現代産業社会の技術科学文明が衰退しつつあるときに、社会の現実と原理との間の矛盾を覆い隠すうえで、学校ほど巧みに働きかける制度はないだろう、とイリイチは言う。「学校は誰にたいしても、そのドアを閉ざす前にもうひとつのチャンスを与える――それは、矯正的な、成人教育、補習教育である。」

「学校・医療・交通の神話」は、直接メキシコまで赴きイリイチに師事した山本哲士がイリイチの思想をまとめたもの。このひともなかなか特異な思想家だと思う。

学校の操縦的性格にたいするイリイチの批判は容赦のないものである。
人々が成長し学習しようとする自然な傾向を、教えられることを要求するように転化する。他人によって成長させてもらおうとする依存は、製造された商品を求めるよりはるかに自発的活動の意欲を放棄させる。この自律的成長の責任の放棄は一種の精神的自殺である。

山本が語るように、学校は人間の自律性と自発性を剥奪し、依存的で消費的な、従順な人間に変えてしまう。いってしまえば魂を植民地化する場所なのだ。

イリイチといえば「ディスクーリング(脱学校化)」と「シャドウ・ワーク」のようなジェンダー論が有名だが、学校の他に、「医療」や「交通」といった神話化された領域を批判している。

近代社会を成り立たせるためにいかにそれらの制度がはたらきかけてきたか、そして私たちの内面を変容させるのかがよくわかる。

イリイチはとにかく過激な思想家で、読んでいてまったく退屈しない。私がもっとも好きな思想家のひとりだ。

「いまだ人間を幸福にしない日本というシステム」カレル・ヴァン・ウォルフレン

単純にいえば、学校という装置の何が問題かといえば、コンフォーミズムと権威主義である。

個人の自由を奪い、人間を道具化するこのふたつの要素が、もっとも強い国のひとつは日本である。

私はもともと日本が好きで、古い呪術とか、渡辺京二のような江戸ユートピズムに影響されたこともあったけど、いまは完全に失望している。

カレル・ヴァン・ウォルフレンはアムステルダム大学の比較政治・比較経済担当教授である。もともとジャーナリストだから、文章は非常に平易で読みやすい。

日本企業は、他諸国の企業と同様に、製品やサービスを精算し、金を儲ける。しかし、日本の大企業は社会を統制するという、さらに重要な機能を果たしている。

日本には会社に貢献する従業員たちという巨大な集団があり、しかもそれは日本で最も重要な消費者グループでもあるわけだが、彼らは政治にかかわる発言を一切しないばかりか、行動することもできずにいる。

ウォルフレンは「日本人らしい日本人」がどのように「再生産」されるのかについて批判的に考察する。

日本批判についてはウォルフレンの「日本という国をあなたのものにするために」もおすすめだ。日本の景観の醜悪さの腐敗が気になる人なら、アレックス・カーの「犬と鬼」もおもしろい。

近代から現代にいたるまでの日本の実像を知るためには、ジョン・W・ダワーの「昭和」、日本の裏社会を知るためにはデイビッド・E・カプランとアレック・デュブロの「なぜヤクザは消滅しないか」、警察とジャーナリズムの腐敗についてはジャーナリストの寺澤有氏が良い情報を与えてくれる。

「ゾミア――脱国家の世界史」ジェームズ・C・スコット

さて、最後の本の紹介。ここまでくると、私がアナーキストであると自覚したあとの本だ。

私はしばらく「日本嫌いの日本人」だった。おおくの左翼と同じく欧米先進諸国に憧れを抱いた。

もちろんカナダやデンマークが日本より相対的に「良い」が、それは国家が良いわけではない。国家とは本質的に悪であり、民衆がそれに「反逆する」限りにおいて邪悪さを弱める。

「ゾミア」とは東南アジアの山地民の総称である。彼らは国家を拒絶して生きていた人々だ。

「ゾミア」とはベトナム、カンボジア、ラオス、タイ、ビルマの5カ国と中国の4省を含む丘陵地帯を指す。ここには国民国家に統合されていない約一億の山地民が住む。彼らは税を払わず、相対的に自由で、国家をもたない人々である。

国家の内部に生きるのか、外部に生きるのか。それともその中間部に生きるのか国家という政治形態が隅々まで行き渡っている現在の私たちは忘れがちだが、人類史の大部分においてこれらは現実的な選択肢であり、人々は状況に応じて対応を決定してきたのだった。

現代の私たちはみな「国家の中」に生まれる。日本に生まれた1億人以上のなかで、このことに例外はほぼないはずである。

しかし、1万年前まで「国家」は存在しなかったし、近代のある段階に至るまで国家が民衆のすべてを飲み込むことはなかった。

したがって、人々は「国家」に生きるか、境界を生きるのか、その外の「非国家」を生きるかを選択していった。公正で温情のある国家であれば、人々は国家にすすんで参入しただろう。抑圧的な国家となれば、人々は逃げ延びた。人々は、国家とアナーキーのあいだを行き来したのである。

民衆にとっては逃走という物理的行為こそが自由の源泉であり、逃避こそが国家権力に対する主要な抑制力であった……徴兵、強制労働、徴税によって重い負担を強いられた人々は、反乱を起こすより、概して山地や隣の王国に逃げ去ることを選択した。戦乱、継承争い、穀物の不作、君主の誇大妄想などが突発的に生じることを考えると、そのタイミングを正確に予測はできなくても、国家建設事業がいずれ危機に直面することは不可避であった。

この本は、国家を相対的に見る上で非常に役立つ。というのも、私たちは否応なく国家に飲み込まれているのであり、一方的に「契約」を結ばれ、その外に生きることを許されていない。

しかしゾミアのような人々の価値観に触れることで、彼らの「視点」を得ることが可能になる。

終わりに

以上5冊を紹介してみた。

最初に書いたとおり、あまり納得いくチョイスではないけれど、良い本に出会う助けになれば嬉しいと思う。

「後半」と書いたけど、また良い本があったら紹介したいと思う。

1 Comment

  1. 広告で金稼ぎ目当てのゴミのようなブログが溢れる中で、御厨さんのブログはとても有益で目新しい視点を私に与えてくれました。目先の利益のためではなく、良質な情報を公開したいという信念を感じます。ある意味で日本に失望していた自分に光を当ててくれました。同じ思いを持った日本人もいるんだと。これからも拝読させていただきます。紹介頂いた本も読んでみます。アナーキストの同志として自分に出来ることを精一杯やって人生たたみたいと思います。

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