2020-02-28

中古住宅に移り住んで3ヶ月が経つ。

このあいだ、労働はしていない。人とも会っていない。

たまに買い出しに行く以外、ほとんど隠棲のような生活だ。

Roni Horn – PART OF Still Water (The River Thames, for Example)

経済

月の生活費は3万円ほどだ。

食費が1万円、光熱費が5000円、通信費が6000円。あとは雑費。

人間ひとりが生きるのに金はそれほどかからない。自動車の維持費は年間50万円というが、私ひとりならそれ以下で済む。

なんてことはない、それっぽっちの金で生きていけるのだ。

節制は難しくないし、つまらなくもない。単なるひとつの習慣だ。しかしその効果は大きい。金のことを考えなくなる。実際、「金を考えないこと」はなにより貴重な特権に思える。

そして、どんな状況でも生きていける自信が生まれる。刑務所の囚人、生活保護受給者より私の生活は貧しいものだろう、少なくとも物質的には。

節制は不健康ではない。徒歩や自転車が移動の中心となり、食べ過ぎることがなくなる。いまは栄養不良より栄養過多の方がよほど人間を殺している。無論、労働がないから、ストレスもほとんどない。

「Bライフ」のBはさまざまな意味を持っているらしいが、少なくとも「ベーシック」という意味で、私の生活はBライフだろう。

隠遁

社会から離れる。

私はミサントロピーであり、人間と社会を嫌っている。

「人間農場」とは良い表現だ。奪う人間がいて、奪われる人間がいる。それがこの社会だ。

陰謀や詐術が巧みな人間と、それに食われる人間――自分は「自由」で「幸福」だと信じる単純な人間――とでこの社会は構成される。

個人の葛藤は、このいずれも拒絶するときに生じる。奪うことも奪われることもごめんだ、となれば社会から離れるしかない。

「社会を良くする努力をしないのか?」

社会的革命や改革は、人間の本質と既存社会が乖離したものである場合に適切な手段だ。もしも「人間の本質」に完全に対応した「理想社会」が存在するなら、社会を理想社会に近づけなければならない。

だが、シュティルナーが言ったとおり、「人間」「本質」「理想の社会」、これらはすべておばけspooksである。

現実には、人間の本質なんてありはしない。「人間とは」という語りは、「神とは」と語ることに似ている。

革命家や社会運動家が信じるよりもはるかに多くの人間が反逆より服従を望み、自由より不自由を望む。人間の大部分は家畜として品種改良されたからだ。家畜的な人間にとってこの社会は決して「悪くない」のであり、民衆の革命精神ほど気まぐれなものはない。

奴隷に自由を与えることは、奴隷から隷従する自由を奪うことになる。それとも、家畜的人間の奴隷根性(おそらく遺伝的性質)を「改革」すべきだろうか。そんなことは不可能だし、だいいち吐き気を催す。

私が自分にできる最大のことは、社会から自分を引き離すことだ。

そして、第二にできることは、自分以外の、自分と似た人間を社会から引き離すことだ。それ以上のことはできない。

詐欺師と家畜で構成される人間や社会一般、そんなものは私にはどうしようもない。私は「賢人と馬鹿と奴隷」でいえば、賢人になりつつある。

反逆

レンツォ・ノヴァトーレを訳したとき、私は自分の生活をひとつの革命だと認識している。……と書いたら、ぜんぜんそんなふうには見えない! というコメントがついた。もっともだと思う。

「革命revolution」より「反逆rebellion」が近い。ノヴァトーレはシュティルナー主義者のくせにこのふたつをあまり区別していないようだ。

私の生活がなぜ「反逆」なのか?

簡単な話だ。私は労働せず消費もほとんどしない。そのため、企業に利潤を提供することも、国家に税金を与えることもほとんどない。

私は自分の生活からそういった「寄生虫」や「おばけ」を排除してきた。そしてそれらが占めていた空間に自己の生を拡充していった。

税金を奪われることがなければ、国家の影響は消えてゆく。賃金労働と消費活動をストップさせれば、生活から資本主義はほとんど消える。家畜的人間と関わることがなければ、社会も生活から消える。

私は家を買ったこの土地で、歩き、読み、食べ、寝ているが、そのことと国家や社会はほとんど関係がない。国家や社会を「消して」、いまここの生活を楽しむこと。これが「反逆」であると認識している。

「国家を消す」のではなく、「国家と戦おう!」と意気込む人間が、どうも信用できない。革命は、辞書によれば、被抑圧者が支配者を打倒する試みだ。しかし、国家が自分よりも「上」にあると私には思われない。私を支配しているとも思われない。

たしかに国家は国民一般を支配している。しかし私のような反逆する個人にたいして、国家は無力である。戦うべき恐ろしい敵というよりは、嘲笑と哀れみを誘う存在である。

国家や社会は、私の「下」に嘲笑うべきものとして存在している。

私の土着的で、エゴイスティックな自律的な生活はそのずっと「上」にある。

この嘲笑と哀れみこそが、最大の反逆であると認識している。

展望

私は自分の自由をあるていど実現した。もちろん、まだ不十分なところはある。

読者さんが思うほど、私は「人と関わらずに生きたい」というわけではない。自分が自由になるためには、絶対的な孤独が必要だったというだけの話だ。

私の生活はエピクロスの影響が大きい。けれども、エピクロスが最上の喜びとした「友情」はない。また、シュティルナーの「エゴイストの連合」とも無縁だ。絶対的な孤独が良いと考えているわけではないし、ある程度の人との関わりは必要だと感じている。

また、私は自分の生活をオープンにしないことが「不当」であると感じている。賃金労働に不満を感じる人々に公開すべきだと思っている。そのような取り組みはしている。こっそりと……。

私は自分を自由としたつぎには、同様の反逆する個人を増やすことを考えている。

とはいえ、しばらくはだらだら過ごすだろうな。

老子ではないけど、「無為」な生活ってわけだ……。

5 comments

  1. 社会に反逆するという否定的な次元での神なき自由は、積極的な創造の自由をもたらし得るという予感を与えるものなのでしょうか。(言うまでもなく、現在の日本社会には創造性の欠片もありませんが。)

  2. 御厨さんは以前、近年エピクロスを再評価したと書かれていましたが、「人間や社会一般、そんなものは私にはどうしようもない」という考えはストア派のそれに近いですね。自分が制御できないものには固執しないという。私も自分にできることを粛々と推し進めていきたいですが、なかなか邪念が払えません。そういう意味で御厨さんの「反逆」を見習いたいですし応援もしています。

    1. そうですね。ストア派も好きです。
      エピクロス主義とストア派はよく対比されますが、共通点の方が多いかと思います。

      もともとエピクロスに傾倒したのはハン・ライナー「個人主義のミニマニュアル」の影響が大きいのですが、
      彼もエピクロスとエピクテートスを同時に愛していました(エピクテートスをより評価してますが)。
      https://mikuriyan.com/individualism/3158/

  3. 孤独に耐えられる人間だからこそ、相手に自身の精神的負債を押し付けることなく
    真に相手のことを思い遣れるものです。私は人間が到達しうる最高の精神は
    一切の利己的な動機を排し、他者を助ける行為を通して顕現する自己犠牲精神であると
    信じております。

    もちろん助けるに値する人間以外にそのようなことはすべきではありませんが。。
    御厨さんにも良い出会いがあればと思います。

  4. 私は現在、21歳の大学生ですが、あなたのように社会となるだけ自分を切り離して生きることを目標としています。
    そうすることが自分の幸せや充実感や自由を獲得することに繋がり、またそのことで自分は人類に貢献していると感じるだろうと思うからです。今の社会は腐っていると思うので。いつも更新ありがとうございます。

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