2019-12-31

今年一年とはなんだったか?

だいぶ更新がごぶさたしているが、年末である。一年を締めくくりたい。

Untitled – Doug Wheeler

私に起きたこと

2019年にはさまざまなことがあった。

要約すれば、9月で仕事を辞めて、11月に家を買って、隠棲している。今の所とくに問題なく暮らせている。

「隠棲は私にとって良くないのではないか」という指摘もあった。実際、この生活をはじめて一ヶ月ほどで、少し落ち着かない気分を感じている。

それは経済的な不安ではない。経済的不安は、まったくといっていいほどない。リタイアして気づいたことは、人間ひとりが質素に生きるのにほとんど金を必要としないっこと、賃金労働せずに金を稼ぐのはそれほど難しくはないということだ。

それよりも実存的な不安がある。この生活は「良い」のか。たとえば、隠遁したら当然するだろうと想定していたことを、私はあまりできていない。このブログの更新は、多くなるより少なくなってしまった。本も少ししか読んでいない。時間さえあればゆっくり大著が読めるのに……と考えていたのだけど。ようするに、私は怠惰に生活するようになった。

かつての私は、とにかく「自由」を求めていた。自由に恋い焦がれて、現状を抜け出したかった。今ここへの嫌悪が未来へのあこがれを生む。どこか遠くへいきたいという願望が、理想を求めさせる。闘争を生む。ところが、いざ自由に行きついてしまうと、それはただの日常になる。理想が現実となり、恋い焦がれた女性がただの人間になる。

もちろん、自由はすばらしい。そのことは毎日感じている。朝日にあたり、海を眺めながらゆっくりとコーヒーを飲む、そういうことは最高である。それに私は、勇気と決断によって賃金奴隷の身から解放されたことを誇りに思い、喜んでいる。

けれども、私は自由を楽しむより、自由を求めていたときの方が、よかったように思われる。いわば、情熱とか、困難を乗りこえる方が楽しいのだろう。

考えてみると、私は果実を得ることよりも、果実を得る力を持つこと、その力を行使すること、そちらの方が好きである気がする。私の生が根源的に欲望するのは、やはり「力の所有」なのだろう。

それにしても、隠棲して驚いたことがある。それは金にほとんど意味などないということだ。多くの人間が華々しい「経済的成功」を恋い焦がれる。そうでなくても「経済的自由」を求める。

金がないのはたしかに問題だ。最悪になりうる。しかし、金がいくらあったところで、それは生のいくつもある問題のひとつが解決されるに過ぎない。依然として人生は謎であり、困難である。

まあ、この倦怠は一時的なものであるという気もしている。どんな生活でも、それに慣れようと思うと3ヶ月はかかるものだ。隠棲に慣れたら情熱が芽生えてくるかもしれない。

「齟齬」に起きたこと

「齟齬」というブログも、2年目が終わる。

このブログは、私の知的関心と趣味によって続けられている。

はてなブログで書いていた頃は、「反日本」の記事が多かったと思う。私は日本が大嫌いだった。そこから、そもそも国家が悪なのだというアナーキズムに辿りついた。

現在、このブログは個人主義アナーキズムを翻訳・紹介する日本で唯一といえるサイトとなっている。ときどき誇らしくなるのだが、私は日本で唯一の仕事をしているのだ。もちろん、その仕事の質、成果は、良いものとはいえないけど。

このブログの厄介な問題は、Googleに嫌われていることである。おそらく、翻訳記事が多いこと(著作権フリーの記事やクリエイティブ・コモンズの規定通り訳しているのだが)、また犯罪的・反社会的内容が多いことに由来するのだろう。したがって田舎の潰れかけのそば屋みたいに閑散としている。

とはいえ、そば屋と同じく、昔からの常連さんがいるので潰すわけにはいかない笑 「齟齬」以前の「Nosce Te Ipsum」を書いていたときから、私は7年くらいブログを続けてたことになる。基本的に孤独に生きている私にとって、ブログを通じていろんな人と交流したり、意見を交換するのは喜びである。

「齟齬」とは、「個人と社会のあいだの齟齬」を意味する。しかし、隠棲した私はもう社会との諸矛盾を感じることが少なくなった。私はもう賃金労働者ではなく、ある意味で有閑階級、自由人であり、そうでなければアウトサイダー、鬼であり、社会から離れようと思えば離れることができる。したがって、私という個人と社会は、ほとんど関わることなく「共存する」ことが可能になっている。

このことは、私にとって大きな変化だ。私はこれまで「世界を殺すか、自己を殺すか」という人生の大きな問題をかかえていたから。経済的自由が、社会との距離を可能にした。社会を生かし、個人としての自己を生かす、という道もあるかもしれない。

「階級闘争」のismからすれば、「お前はひとりだけいい思いをして、抑圧されているプロレタリアートを救わないのか」となりそうである。たしかに私はプルードン流の博愛やシモーヌ・ヴェイユの自己犠牲を愛する。

でも、私はエゴイストである。私は自分が自由を愛することを知っており、自由に値すると感じている。そして同時に、世の人間の大部分が不自由を愛することも知っている。

「齟齬」という言葉には反社会的なニュアンスを込めてあるが、これからは「非」社会的に生きるかもしれない。

「隠れて生きよ」というわけだ。

個人主義アナーキズム

ほんとうに良い思想家に出会えた

今年は実り多い年だったと思う。良い思想家に出会えたからだ。ジョルジュ・パラント、マックス・シュティルナー、ハン・ライナー、レンツォ・ノヴァトーレ、シドニー・パーカー。犯罪主義のアピオ・ラッド(旧ウォルフィ・ランドシュトライヒャー)、フラワー・ボム、エコー。隠者のクリストファー・ナイト。そして今年はエピクロスを再評価したが、エピクロスは私のもっとも愛する思想家のひとりになっている。

これらほとんどが、Anarchist Libraryを経由している(あとはMarxists Internet Archiveなど)。私はたまたま、英語が多少読めたこと、Google翻訳の性能が向上したことで、これら思想家に出会うことができた(私がやたらと翻訳記事を書くのは、まず自分が良質の文章を精読してよく味わうためである)。

個人主義の思想、また思想家たちは、日本ではほとんど評価されていない。認知すらされていない。たとえばイタリアン・アナーキズムで著名なレンツォ・ノヴァトーレも、個人主義者エミール・アルマンドも、日本語のWEB上で言及しているのは私だけである。

これは不自然なことだと思う。日本人は伝統的にニーチェが好きであり、ニーチェ思想を好む人間は、多かれ少なかれ個人主義アナーキストに親近感をもつ。受いれる土壌はあるはずだ。

一般論としては、日本人は集団主義でコンフォーミストのネオテニー(幼形成熟)的であり、羊のなかの羊である。アナーキズムとは遠い。しかしながら、個人主義アナーキズムが浸透した日本を想像するのは楽しいことである。

成熟した、野生の、エゴイストたちが跋扈する日本。私が生きている間に見ることができればいいが?

ともあれ、テッド・カジンスキーが言うように、「多くの所有が幸福をもたらす」というような価値観は崩れつつあると感じる。

私のように、労働も消費も拒絶する人間は今後増えていくだろう。ポスト資本主義へのパラダイム・シフトはそう遠くないと思う。

2020年

2017年から2019年にかけて、私は思想的にかなり放浪した。しかし、個人主義アナーキズムにたどりついたあとは、それ以上の思想的冒険が必要だとはあまり感じなくなった。

実生活においても、私は困難と葛藤のすえ、隠棲に落ち着いた。

2020年は、あまり動きのない年になるだろうと思っている。いわば老年の隠居生活である。それは退屈そうだけど、必要な段階だと思っている。

つねに、私は人生を先取りしているようだ。30代でも子どものような人はいるのに、私はすでに老人のようである。ただ、私はこういう生き方が好きだ。人生のいろんな段階を早めに経験しておけば、不意に死が訪れたときにも、後悔ないからである。

さて、来年も齟齬は更新していくし、私は自分の仕事を続けるつもりだ。

それでは良いお年を。

7 comments

  1. 2020年もよろしくおねがいします。提案なのですが、ビットコインで寄付を集めてみては?良いお年を。

  2. いつも読ませてもらっています。2019年はあなたに出会えてとてもよかったです。よいお年を。

  3. ご無沙汰しております。以前『私は鬼である』にてコメントさせていただいた者です。
    本記事での社会との「共存」や距離感について言及されている部分、まさに存在論的エゴイズムらしい軽やかな身のこなしを感じました。
    私にとっての自由(もしくは「限りなく自由に近い自由」)とは、経済的・存在論的恐怖を超克し、既成概念と〈私〉との間の余白を取り戻すこと、そして、社会/世界を静かに冷たく見つめるための視力を獲得することです。
    実践を通して「自由」な在り方を探求してきた御厨鉄さんから後者のような視点を感じさせるような考察が出てきたことは、(完全にワタクシ事/ワタクシ得な話ですが)とても嬉しく思いました。
    毎度 投げっ放しな感想コメントですみません…。今年も「田舎の潰れかけのそば屋」の常連のひとりとして、更新を楽しみにしております。これから寒さも厳しくなってまいりますので、どうかお体に気をつけて過ごされてください。

  4. これだけ日本の恩恵を受けていながらよくも日本を批判できるな。どれだけ傲慢なんだ。
    なんでこんなにも他責思考なんですかね?
    経済的独立できたのならそれはよかった。

  5. ブログ主さんはおそらくは警察によって国家に守られる側の存在なのに,なぜ国家に反対するのですか?
    国家がなくなったらほぼ確実に現在よりも生活は悪化するのに,なぜそれを望むのですか?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です