2020-06-15

すべての社会集団のなかで個人主義者は反逆者でありつづける。

ロシアの革命家、ヴィクトル・セルジュ(1890-1947)がL’Anarchieに記載したエッセイを英訳より訳しました。

なお、セルジュについては山路昭氏のエセー(PDF)が詳しい。

個人主義者と社会

Source: L’Anarchie, No. 323, June 15, 1911;
Translated: by Mitchell Abidor for marxists.org;
CopyLeft: Creative Commons (Attribute & ShareAlike) marxists.org 2006.

社会という言葉は集団の同義語である。今日、ほとんどの人間は莫大な手段を構成する。無数の下位集団(人種、国籍、社会階級、イデオロギー集団)に細分されているにせよ、それでもひとつの全体として考えることができる。社会という言葉で我々が示すのは、この全体、恐るべき集団性である。

社会を個人の集合とみなし、その重要性を否定することは、短絡的、あまりに短絡的である。それは社会心理学、群集心理、さらに驚くべきことにはもっとも初歩の観察結果を理解できていないことを意味するのだ。実際に観察が示し、研究が裏づけていることによれば、利益や願望、あるいは似かよった遺伝を通じて人々が一緒になる、その事実によって人間が変化させられるのである。新しい心理が創造され、それが連合の成員すべてに共有される。群衆を構成するという時点で、群衆は、それを構成する個人とは異なるメンタリティ、人生、運命を持つのである。

社会という存在は個人存在を支配する生物学と同じくらい不変であるところのこの法によって支配される。

さて、ここで問題提起しようではないか。これら法は個人にとって好ましいものだろうか? 本能と調和したものだろうか?

すばらしい短文「Precis de Sociologie」でジョルジュ・パラントは書く。「社会はいちど形成されると、自らを維持しようとする」したがって、「すべての領域――経済的、政治的、法的、道徳的――において個人の活力は、共同の有用性のもとに窮屈に屈服する。この規律のもとに屈従しない活力の哀れなことよ。社会はその活力を慈悲もなく破壊あるいは排除する。それは盲目の本能のように、否応なく執念深い。ひどく具体的な形で、社会はショーペンハウアーが「知性と切り離された生への意志」と表現する残酷な力を示している」

盲目の本能のように否応なしに、執念深く振る舞う。それはひどく具体的な形で、ショーペンハウアーが「知性から切り離された生への意志」と表現する残酷な力を表出する」

現代の社会学者のほとんどが認めるように、我々は「社会保護の一般法」をあまりにその肩に重く受けとめているために、このことはいっそう事実である。

このことに「すべての組織化された社会が成員に、行動、外見、意見や理念の一定の同一性を求める社会的コンフォーミティ」と、「結果としてもたらされるコンフォーミズムに反逆する個人を排除する法」を加えたとき、個人と社会のあいだの対立の全容が示される。

我々が理論的に到達した結論の際立つ例を確認するには、ひとめ見渡すだけでいいのである。

実際、その名のもとに各々が万人に潰されるような、いわゆる社会契約よりも不道徳なものはあるのだろうか? 君は労働者に、兵士に、娼婦になるだろう、社会がそれを要求するために。そして一度も合意を求めずに強制された契約によって。君は法律に服従して伝統の下僕となる。慣習法と風習にしたがって生活する。そして伝統、法律、風習は君を制限して発展を妨害し、苦しみを生むのだ。服従せよ、屈服せよ、放棄せよ。そうでなければ隣人が君を非難し追求する。世論はあざ笑い、君の無礼に対して最悪の刑を要求し、法が君を攻撃する。飢え、中傷され、罵られ、名誉を傷つけられた君は、彼らが容赦なく圧殺するところの反逆者となる。

それが現実だ。「私」には祖国はない、また守るべき金も財産もない。私の関心など社会にはどうでもいい。社会に必要なのは兵士である、だから私に祖国、兵舎、軍服を強制する……。

「私」はもはや、群衆の人生を支配している時代遅れな道徳のカモではないのだ。私は自由に愛することを切望する……。しかし、社会体が必要とするのは、法律を尊重する愛なのであり、市長の前で結婚しないと法律と世論は厳しいものとなる。

私は労働を愛する。しかし自由に労働したいのだ。賃金システムが提示するのは奴隷、強盗、餓死の選択肢である。

そして我々は社会的組織のひとつの形態ー権威主義的資本主義――を他のものより非難すべきではない。たしかに、はるかに悪性が少なく、合理的で知的に組織された社会を考えることは難しくない。しかし実現が多かれ少なかれ非現実的で議論の余地があることはさておいても、それがつねに深刻に個人の発展を妨害するものであることは隠すべきではないのだ。

集産主義者の未来仮説は、自らのオートノミーを守ろうと望む個人と国家のあいだの熾烈な闘争を予感させる。もっとも広範な意味で――無政府共産主義者の友人たちのように――理解するとしても、社会集団は単一のイデオロギー信条をその成員に強制する傾向は避けがたい。いぜん個人と社会のあいだに闘争がある。それは自由と物質的生活のかわりに、知的、道徳的な独立のための闘争である。そして未来の人間にとって――もしその未来が実現したならば――その闘争の道のりは、現在のパン、愛、新鮮な空気のための闘争と、同じほどの悲痛なものではないということはないのである。

すべての社会集団のなかで個人主義者は反逆者でありつづける。

個人と社会の対立に気づいたというだけで我々が非社会的であると考えられるべきではない。しかし我々の敵はその混乱を幾度も生み出そうとしてきた。

社会のなかの生活は、意義を唱えることをもはや考えなくていいという利点がある。しかし、自分の理念に従い生きることを切望するエゴイストとして、それを受け入れることはできない、避けがたい不都合があるとしても。これは個人主義者の特徴のひとつである。:「彼は諦めない。たとえ運命づけられていることであっても」

もし社交的な個人が、隣人に迷惑をかけない――あるいはできるだけ迷惑をかけない人間を意味するのであれば、個人主義者はまさしく社交性の塊である。なにより興味深いがこれは事実なのである:より多く邪魔すれば、邪魔される。したがって彼は他者に好きなように生きさせる、彼らが自分に同じ権利を与えるかぎりは。実質的目標を考慮して、彼は「自由に合意されたアソシエーション」、善意による一時的なアソシエーションの利点を無視することはしない。しかしあ彼れは団結の偶像のカモとなることは望まず、集団、教会、教派に吸収されることを認めないのだ。

彼が強いほど――強くなければ自分を肯定することは不可能だと我々は考えるが――いっそう社交的であるだろう。

強者は寛大である。寛大であるほどに豊かである。もっとも精力的な反逆者、社会のもっとも不屈の敵は、つねに心の広い者だったのだ。

2 comments

  1. 国や社会の支配から抜け出すより、自分自身から自由になる事の方がずっと難しいです。御厨さんの批判は常に外側に向けられていてご自身の内面への洞察を欠いておられるように思います。といってもそれはブログに書けるようなものではないでしょうし、ひょっとしたらこっそりしておられるのやもしれませんが。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です