2019-11-12

個人主義アナーキストは現在に自らを置く

フランスの個人主義アナーキスト、エミール・アルマンドの「Individualist Perspectives(1957年)」を訳しました。主に無政府共産主義と個人主義アナーキズムの違いを示す内容となっています。

個人主義のパースペクティブ

Le temps perdu — Katsuhito Nishikawa

アナーキスト個人主義者は自らをプロレタリアとは表明しない。プロレタリアは、ただ物質的改善の探求にのみ没頭し、世界を変革して既存の社会を新しい社会に置き換えることを意志する階級に結びついているものである。個人主義アナーキストは現在に自らを置く。彼らは幸福を保証すると言われている社会形態に来たるべき世代を向かわせることを軽蔑する。それはなぜかといえば、単に、個人主義者の見方では、幸福とは個人の内なる実現を勝ちとることにあるからである。

よく定義されたシステムとしての、方向づけ、処罰、義務のない世界的社会変革の効果を信じたとしても、私は何の権利をもって他者にそれが最良なのだと説得できるのだろうか。たとえば、私は権威の最後の痕跡さえ消えた社会に生きたいと望むが、率直に言って、「大衆」が権威をもたずにやっていけるのかについて確信が持てない。私は社会の成員が自分で自分のために考えるような社会に生きたいが、宣伝、新聞、軽薄な書籍、そして国家が支援する気晴らしを大衆が楽しんでいるのを見ると、人間がはたして独立した思考を顧みて判断することができるのかと私は自問してしまう。

こう言われるかもしれない。社会的問題が解決されればすべての人間は賢者に変わるのだと。これは根拠のない肯定である、すべてのレジームに賢者がいたというのと同じように。社会的結合において内的調和と均衡を創造する可能性が高い社会を私は知らないために、理論化することは避けたい。

「自発的アソシエーション」が、計画、事業、与えられた行動への自発的な癒着のこととして語られるとき、このことはアソシエーション、癒着、行動の拒絶の可能性を示唆する。この地球がひとつの社会的経済的生活に従うとしよう。このシステムがもし私にとって喜ばしくないとき、私はどうやって存在したらいいのか? このふたつしかない。和合するか、死ぬか。そこでは「社会的問題」が解決されたために、非コンフォーミズムや反抗などの余地はないと考えられている。しかし、新しい問題を提起したり、旧来の解決策に戻ることが重要となるのは、まさに問題が解決されたときである。それが停滞を避けるだけだとしても。

もし「自由」がすべての個人のうえに位置するならば、それは彼らの意見の思想、表明、拡散にほかならない。単一のイデオロギー的団結にもとづく社会的組織の存在は、言論の自由や、イデオロギー的に反する思想の自由の行使を禁ずる。私の見解を知らしめる手段、私の批判を出版する手段がレジームの座についた人々が所有しているとき、どうして旧来のシステムを支持することや、別のシステムを提案することで支配的システムに反対することができるだろうか? このレジームは、自身よりも優れた社会的解決策であるとき、その批判を受け入れるのでなければ、その「主義者」の内部で阻止するとしても、もはやそれは他のレジームより優れたものではない。反対、離脱、分裂、分離主義、競走を認めるのでなければ、そのレジームを独裁と区別するものは何もなくなる。この「主義者」レジームは、大衆の力で生まれたのだ、そして議会や議会の代表者たちのみがその権力と管理を行使すると主張するだろう。しかし、抗弁者や反逆者たちが態度とその行動の理由を表明することが許されない限り、それは単なる全体主義システムに過ぎない。独裁政権が誇る物質的利益はなんら重要ではない。欠乏だろうと豊富だろうと、独裁政権は独裁政権である。

しかし、私たちがこの学派の個人主義者が、国家――西洋民主主義や全体主義システムなど――に関する限りのアナーキスト(AN-ARCHY、語源としては、人間の国家の否定であり、その他は関係ない)であると想像することは、自らを欺くことになる。この点は強調してもしきれない。経済や政治支配も含めて、美的や知的、科学的や倫理的を含めて、すべての権力に対して個人主義は反逆する。彼らはそのような前線を単独で、あるいは自発的アソシエーションによって形成するだろう。実際には、もしすべての活動と実現の可能性が許容されたときには、集団や連合は国家と同じくらい絶対的な権力を行使できる。

個人主義者が進化し発展することができる唯一の社会団体は、同時に複数の経験と実現を認めるものであり、イデオロギー的排他性に基づいて設立されたすべての集団化に反対している。この排他性がグループ化の非遵守者にまで及ぶことを目指している瞬間から、個人の完全性を脅かす。

個人主義者が進化し発展することのできる唯一の社会体とは、多元的な経験と実現を同時的に認めるものであり、イデオロギー的排他性によるすべての集団化に反対するものである。それが集団化に対して非合意の者に排他性を向かわせた瞬間から、それは個人の完全な状態を脅かすものになる。これを反国家主義と呼ぶことは、人間ヒツジの畜群を操作したいという欲望のマスクを想起させるもの以上ではない。

先に私はこの点を主張する必要性を述べた。たとえば、アナーキスト共産主義はそのイデオロギーから国家を拒絶し追放する。しかし、それは個人的判断を社会的組織に置き換えた瞬間に復活するのである。もしアナーキスト個人主義がアナーキスト共産主義と同じように「Arche」、国家の政治的拒絶をするとしても、それは単に分岐点を示すにすぎない。アナーキスト共産主義は、経済面、階級闘争の面でサンディカリズムなどと結びついている(その点は正しい)。しかしアナーキスト個人主義は、心理的な面、社会的全体主義への抵抗の面に位置している。ここがまったく異なる点である。(必然的に、アナーキスト個人主義者活動や教育:哲学、文学、倫理などの多くの道を辿るが、ここで私は簡易的に私たちの社会的環境に対する態度のいくつかを正確にしたかったのである)

私はこれが特段新しいものではないことを否定しないけれども、ときおり戻った方が良い地点になりつつあるだろう。

訳者あとがき

エミール・アルマンドとはだれか?

エミール・アルマンド(Émile Armand, 1872-1962)はフランスの個人主義アナーキストです。

多くの個人主義アナーキストがそうであるように、はじめに彼が受け入れたのは別の学派でした。はじめにトルストイの影響を受けてクリスチャン・アナーキズムに傾倒し、次に無政府共産主義に移行した。しかしすぐに個人主義アナーキストとなった。

彼はアナーキスト誌、Èrenouvelle(1901–1911)、L’Anarchie、L’EnDehors(1922–1939)、L’Unique(1945–1953)を執筆・編集しました。その著作は、あきらかにマックス・シュティルナーの影響を受けている。また、同時代の個人主義者であるハン・ライナーやベンジャミン・タッカーらとの交流があり、互いに影響を受けています。

エミールは個人主義と無政府共産主義との区別を明瞭にします。彼は個人主義者を「現在主義者presentist」と呼びました。これは、大衆の革命が実現するまで待つ無政府共産主義との大きな違いです。「来たるべき未来」ではなく「現在の」社会条件において、あくまで反逆しながら、同じような価値観を持つ人々とともに暮らすことを彼は主張した。

彼の個人主義の特徴は、ジョルジュ・パラントレンツォ・ノヴァトーレのようなペシミズムはあまり感じられず、「生は美しいもの」と考えている点です。実際、彼は「私たちの個人主義は墓場の個人主義、悲しみと影の個人主義ではない」と説いています。

エミールは個人主義アナーキズムでも有名ですが、フリー・ラブでも有名です。エピクロス主義的な快楽主義に共感し(そういえばハン・ライナーもエピキュリアンですね)、乱交的な自由恋愛を提唱しました。ところで、彼は出歯亀、ピーピング・トム、つまり窃視フェチでしたから、性的解放を望んだのはそういった性癖が背景にあるのかもしれません。

彼が晩年に書いたこの「個人主義のパースペクティブ」でも、無政府共産主義と個人主義の違いが色濃く描かれています。「すべてが解決された」とされる革命後の「理想社会」に対する予見的な不安と疑念、また大衆への疑念と絶望は、ほかの多くの個人主義者と共通するところです。

彼の思想は日本ではまったく無視されており、ネット上で検索しても情報が一切ありません。また興味のわく文章があったら訳します。

(……もしかしたら「エミール・アルマン」か「エミール・アーマンド」かもしれません。正しい読み方知ってる人いたら教えてください)

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