2019-12-11

自然にはただ生き物と、その欲望と力しかない

アナーキスト・ライブラリーで良い文章を見つけたので訳します。リー・パクストンの「Feral Aurora – Beyond the Pale」。

アウローラは、ローマ神話の曙の女神。知性の光、創造性の光が到来するシンボルとされます。

内容は、エゴイズム、反文明、個人主義アナーキズム、ホッブズ批判です。

野蛮なるアウローラ 限界を超えて

文明は人類「最高の」成果である。しかし、その超自然的壮大さのすべてにおいて、それはまったく非道理であり、明らかに人間の混迷である。「文明」という言葉で私は何を意味するか? すべての高貴さの融合である。すなわち道徳、無私無欲、忠実、敬虔さ、勤勉、無条件の愛、純粋さ、「進歩」など。これらの意味とは:自己犠牲、動物本能の昇華、意志の放棄、自由の没収である。人は美しいものを愛さねばならない、そして美しいものとは高貴なものに限られるのだ。人は善良なものを愛さねばならない、そしてただ文明的行為のみが善良なのだ!

「恥ずべき本性を放棄せよ、人間よ! 高き人生を受け入れよ!」。そうだ、文明の預言者たちは私に文明を弱めるすべてを恥じることを命じる。私はつねに自分と対立せねばならないのだ――私の動物本性、私の「気高い魂」、私の悪魔と天使。この状況では、ツァラトゥストラ、プラトン、ヴァレンティヌスはいかにも落ち着けるはずである! 彼らの千年古い世界観、誤った倫理を文明精神の本質として今でも誇っているのである。

人間が文明の超越的な、ほぼ宗教的な理想の要求に応えることができないとき、私たちは彼を「動物」とか「獣」と呼び、これらの言葉を聞いて悔い改め、頭を下げ、自ら鞭打つことを期待する。もしチンパンジーが必要な理解力をもっていたら、彼はこのことにもっとも当惑させられ、自問することは確実である。「なぜこの動物は自分をそう嫌うのだ? なぜ彼は自分自身ではないものを追求することに専心するのか? 彼はもっとも賢い生き物だが、その賢さが彼を愚かにしているのだ」

私に噛みつくのは品のないことだ、とヘビに言ってみてほしい。それはまったく意味のないことである。自然にはただ生き物と、その欲望と力しかないからである。道徳のような概念は、私たちに精神的抽象の世界を生みだす言語に完全な根源をもつ。しかし、抽象的概念はただ精神のなかにのみあり、自然の中にはない。そしてそれらは思考の過程に生まれるもので、思考以前には存在しない。具体化の過程は、私たちが誤って思想者に思想が先立つと認識するところのものだが、それはまるで「それ自体の生」があるかのように、「文明化された思想」の多様な現出を辿る。そして文明化された思想とは、世界の現実にしたがったものではない。文明は人間が生みだした、人間を所有するものである。高貴なイデアが権威を持ち、人々は自ら演じるところ、人間の建てた家が、彼らの監獄となるところ。

いたるところで衝動は打ち据えられ、強制が説教される。「善良な市民」になることは、自らを法や理想に服従させる高貴な方法である。進歩主義者は情熱をもって説教する、「臣下ではなく市民なのだ」と。しかしながら、自らの服従を誇る臣下ではない市民とはいったい何であるか?

同時に左翼アナーキストは、「国家」とそのすべての表現において反対を宣言する、そして「人間の平等権利についての普遍的法理」を展開する。私は問う、いったい法理を強化する制度ほど、国家をよく表現するものはないではないか? 国家の反対物としてのアナーキーは、ラディカルな平等システムと調和できない。この事実は左派アナーキストのアキレス腱である。武力の必要を認めたくないために――だから彼らは黒旗を赤旗にかえるのだが――彼らのユートピアのビジョンをどうやって実現するのかという問いには答えられない。強大な独裁政権が殺人、投獄、教化の運動を行ったとき、それは彼らが単に実用的であったに過ぎない。理想は、その本質として、物事の自然秩序に反する。丸い穴に四角い杭は打てないと言われる。まあ、きっとできるだろう。ハンマーとやすりが必要になるだろうが。

恥と服従の生活をもはや望まない、宗教だけではなく文明の痕跡さえ捨て去った不満足者のためのときであることは確実である。説教台の預言者をあざ笑い、英雄を前に恐れなく立ちあがり、彼らの法理に火をつけるためのとき。

しかし自由にならんとする私たちは、難問のなかにいることを見つける。私たちが足を踏みいれる地球上のいたるところで、官僚たちが法律書を持ってつきまとい、私たちのすべての動きを監視し、私たちが「自由を得た」最初の兆候を見るなり、法令執行の軍を呼びつける用意ができている。したがって私たちは国家の敵を避けられないことを発見する。国家は「合法性」の中枢だからである。国家はその本質として「合法的自由」を指示し、何ができるか、何になることができるかを決定する。国家は、自由がイデオロギー的に認可された場合にのみ促進し、擁護する――それは自由の名にほとんど値しないものである。

しかし、中傷者たちよ、誤解しないでほしい。私のようなニヒリストは「社会」の敵ではないのだ。だれが友情や協力に反対するだろうか? 私は社会を構想する、しかしそれは現在理解されているものとはまったく異なる社会なのである。人間によってつくられ、人間に奉仕するためにある、自発的な秩序によって生み出された社会、もはや理想を敬うことなく、ただ私たちの創造的意志のみを敬う社会。個人の力に対立しない社会。社会的だが、しかし深く個人主義的で、パーソナルで――私が選び、それが君主とならない――私の共同体。秩序、しかしカオスな秩序――純正なる「フリー・アソシエイション」であること。ポスト規範的――言うなれば、抽象的な道徳哲学的正当化ではなく、意志に根源を持つ。従わなければならない神聖な偶像ではなく、私の満足のために使われる道具。私たちを専制しないコミュニティ、私たちによって決定されるウィルフルな個人のネットワーク。もし私たちが合意にいたらない場合は、単に連合せずに、分離して生きる。土地全体に支配権を主張する法令がないからである。

したがって私たちは「文明」と「社会」を、イデオロギー的秩序と自発的でウィルフルな秩序の間、理想主義と自然主義の間として区別する。私たちはsocietyに小文字の「s」をつけることを求める。抽象的理想――善、聖、真、正――の栄光のために私たちは戦うのではない。私たちのものである私たちのために戦うのである。人間の支配は終わった、私は人間ではなく、私以外の何者でもないために。私は文明のおばけspooksにこれ以上敬意を払う気はない。私の先祖たちを所有していた悪魔たちは追い払った。私は主権の幻想で汚れた手を洗う。

彼らは私たちを野蛮人と呼ぶ、しかしその意味を知りはしない。彼らは私たちが血を飲むのだと想像する。手なづけられないでいることは野蛮で残酷であるという神話のなかで彼らは迷子になっているから。しかし、自然は残酷なのではない。単に無関心なだけである。残酷さとは神経症的な見せかけ、いうなれば解消されぬ緊張の産物である。衝動が自由に表現されないとき、リビドーが満たされないとき、人間は欲求不満となり、その不満がずっと続くときに、その根源と判断されたものへと向かう恨みと怒りが生じる。不満の根源に苦しみを与えること支配することは、克服を実現するもっとも強力な方法である。

文明化された力はこの類の行動を止めるために必要であると判断される。このことについて深く考えない者にとって、これは正しい。しかし、その不条理な道徳的指示によって、実際には抑圧するよりもさらに多くの「不道徳」を引き起こす結果となっている。例えば、性的道徳に厳格なルールを持ち、女性が性的干渉により「痴女」にならないようにする文明では、欲求不満で憤りをもった男性のレイプに悩まされたり、子どものような、より受動的な性的対象に無意識的に注意を向けるようになることは、明白ではないだろうか?

このようなパースペクティブを信じたくない学識ある読者が、トマス・ホッブズの主張を頼りにするのは間違いないだろう。私が探求するところの彼は、少なくともその基本的主張において、卓越した近代の政治哲学者である。なんら生得的な正義をもたない「自然状態」では、第一に自分がもっていないものを他者がもっているという嫉妬によって武力でそれを奪うこと、第二に、その第一の事柄への恐れから、安全を確保するための支配を互いに求めるゆえに、人間は絶え間ない戦争状態にあるのだとホッブズは主張する。このために、「アナーキー的」形態の社会に生きる人々は決して繁栄することができない。彼らは生存のために努力するが、独りでの生存は困難であり、先進文化と産業は不可能なのだ。

この問題に照らして、彼は文明的行動を強制するための、すべての人間に「畏敬」をもたらす主権を提案した。この権力への恐れによってのみ、人間は互いに尊重し合うことができる。人間はこれを受けいれなければならない、なぜなら、一定の自由を放棄する必要があるにせよ、そのことが生活を改善拡大させる平和をもたらすからである。

これは巧妙な議論ではあるが、穴だらけである。人間がホッブズの言うように行動する傾向があるなら、なぜ私を支配する彼らの一人や集団を信用しなければならないか? 彼らは私の「合法的利益」を守ることに専心すると誓うことはできるが、あらゆる瞬間に彼らは私の所有物を着服し、私の妻を奪って妾にしたり、私に銃殺を命じることが可能であることを私は知っている。もし隣人を隣人として信用できないのであれば、王冠をかぶって自らを「王」と呼ぶ人間を信じることは、明白なバカである。ホッブズは歴史についてほとんど無知だったと考える人がほとんどだろう。私たちが他者の任意の意志を恐れるべきだというなら、他者の任意の意志に完全に屈服しなければならないと言うことは考えられないほどバカげている

主権が決定的に慈悲深いと想像するとしても、システムの価値観はグローバルな支配を持つか否かにかかっている。競合する主権――たとえば国民国家――が存在する場合、戦争状態は続き、今度は個人や部族間の小規模衝突ではなく、数百万人の人々が互いに苦しめ合う紛争となるのである。国家は私に言う、それは私の利益である、国家の注意深い目によってもう隣人を恐れる必要はないのだ、そして「私たち」がイランとの戦争状態にあるのだと言うや否や、私はどこかのドブで身体を爆破されるために送られるのである。しかし何も問題ないのだ、私は自由(もっとも高貴な理由だ!)のために死ぬのだから! そして幸運にも私が行使できる愛すべき自由とは、悪臭放つ粉々となった死体になる権利である。

私は「自然状態」が衝突に満ちているという点でホッブズに否定するものではない。しかし、生命が多数の独自の意志を持つ個体で構成されている以上、衝突は生命に避けがたく付随するものである。真に衝突のない世界への唯一実現可能な道とは、すべての生命の絶滅である。私はそんなことは好まないが、他に方法はない。そしてユートピア主義者は永遠に阻まれることになるだろう。

もし私が征服されるのであれば、私の同意を得ることはない。銃を頭につきつけられても国家を歌わないだろう。私は自分の自由を乞わない、それを宣言するのである! だから私は求めるのである、文明の解体を、偶像破壊者とアウトローを、反逆者と不可触賤民を、不満分子、離反者、不道徳者、エゴイスト、皮肉屋、異教徒、ネアンデルタール人、国外追放者、戦士、過激主義者、異議申立て者、ペテン師、失敗者、夢想家、策士、だれかれなしに求めるのである:ひびに指を引っ掛けて、引っ張る者。

訳者あとがき

ホッブズ思想の批判では、ルソー主義者やアナルコ・プリミティヴィストに代表されるように、自然状態を理想化するものが多いです。しかし、リー氏は、衝突は避けがたいものであるとし、その上でホッブズの解決策である絶対君主の存在を否定しています。これは特徴的なところかと思います。

リー氏の思想は明白にシュティルナーの影響を受けています。私たちを所有する「聖なるもの」を破壊すること、私たちに奉仕して私たちの道具とならないもののすべてを破壊すること。この点はシュティルナーそのものです。

そして文明が説く高貴さではなく、野蛮な生の本能に従って生きることをリー氏は説きます。

私が彼の思想で好きなのは、societyにsをつけることを求める点です。ようするに、個人が選択できる多元的な社会を望んでいるのです。近代からその兆しはありましたが、社会構造は、グローバル化とともにますます単一価値観の世界となっています。

もし高貴さではなく野蛮さが、柔弱さではなく力が、愚昧ではなく明晰さが、画一性ではなく独創性が良いとされる、そんな社会があったらいいなとは思います。私は現在、システムから可能な限り離れて隠棲していますが、そんな社会があればより満足して生きることができるでしょう。

それにしても、「文明は悪である」という反文明的な思想は、はじめは面食らった思想ですが、いまとなっては必然で合理的に思えます。

今後まちがいなく、反文明思想はひろく公な議論を呼ぶ問題になるでしょう。文明に対する懐疑が広まったあとの社会では、なんらかのパラダイム・シフトが起きるという予感がしています。

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