2020-03-28

私たちの自由時間はどこまでが「自由」なのか?

デビッド・フレインの著名な本「The Refusal of Work」より、「Free Time and the Pressures of Employability」を訳しました。原文はこちらを参照しました。

Employability(Employ+ability:雇用を得て持続させる能力や属性のこと)は雇用可能性と訳しています。

Composição – Lothar Charoux

「自由時間」

簡単に聞こえる質問からはじめよう。一日の労働はいつ、ほんとうに終わるのか? 私たちの労働は契約上、一日に一定時間の労働を義務付けているだろう。しかし、職場を一歩出ただけで自由の世界へ入り込むわけではないことは明白だ。このことは「自由時間」と呼ばれる、テオドール・アドルノの1970年代の短いが強烈なエッセイでえぐり出された。アドルノは、労働者が労働時間外にほんとうに自律的であるかに疑問を呈し、非-労働時間の隠された目的は、単に労働再開のための準備に過ぎないことを主張した。つまり自由時間はまったく自由ではなく、単なる「利益追求的社会生活形態の延長」に過ぎない。このことは、自由時間が労働とよく似た性質を持つ活動を含む(映画を観る、家事をする)というだけではなく、疎外的で消耗させる労働形態であるほど、回復のための強力な必要を生みだすためである。疎外的な労働は、人々の肉体的精神的エネルギーを枯渇させることで、労働者の非労働時間の大部分が、休息することや現実逃避の娯楽へ閉じこもること、日々の苦労を埋め合わせるような楽しみを消費すること、などに費やされることを確実にする。

自由時間で行う回復的で埋め合わせ的な活動がしばしば楽しめるとするならば、アドルノは究極的に、それは人工的自由の表出であると主張する。自由時間が逃避しようとする力によって導かれる以上、まったくほんとうの自由ではないと彼は主張する。自由時間と、より好ましい真の余暇の分類的区別をより明白にすべきであると彼は強調して主張する。自由時間が単なる労働の延長であるならば、真の余暇は人々が経済的要求から離れて、世界とその文化に対して心から自由でいられるような、甘美な「干渉されざる人生のオアシスoasis of unmediated life」と表されるものになるだろう。アドルノは、富裕な社会で蔓延しているのは、堕落した形態――自由時間、真の余暇ではなく――であると主張する。この堕落した自由時間において、雇用以外で行われる自己定義的な活動は「趣味」として制限される。すなわち、自分の持つちっぽけな時間をつぶすための些末な活動であると。アドルノは賃金を支払われない活動の価値が軽視されているとし、情熱的に「趣味hobby」という言葉を拒絶する。印象的な一節において、彼は堂々と述べる。

私には趣味はない。自分の時間を、要求されたタスクに献身する以外なにもできないワーカホリックではないのだ。しかし、私が認められているところの職業範囲を越えた活動に関するかぎり、それらすべてを、例外なく、非常に真剣にとっている……作曲すること、音楽を聴くこと、集中して読書すること、これら活動は私の人生の本質的な部分なのだ。趣味と呼ぶことは、これらを嘲ることになる。

アドルノは、「ハイ」カルチャーと「ロウ」カルチャーをかなり過激に区別したためにエリート主義として批判されてきた。上記の引用においては、彼の読書、作曲、音楽鑑賞(クラシック音楽と想定して問題ないだろう)に対する真剣な関心は、「より低い」文化の逃避的形態とは暗に対比されている。ここでは彼の区別を擁護することはしないが、人々の困難な状況についてのアドルノの一般的な指摘には多大な現代的意義があることを私は提言しようと思う。標準的な8時間労働が、自由時間をいかに粉砕して破片に変えてしまうかを考えてみよう。フルタイム労働者は、時間を一連の分断され区切られたものとして経験する。すなわち、自由時間が夕方以降や週末、休日に限定される、恒常的に回転する労働時間と自由時間のサイクル。自由時間がこのように断片化されると、私たちは自分の時間で、アドルノが糾弾するところの粗野な趣味しかできない可能性がある。自由時間の断片化は、より実質的な自己定義的活動――集中、献身、コミュニティ構築、新しいスキルの習得など、時間とエネルギーの着実な投資が必要な活動――への参与について制限をもたらす。この状況における極度の被害者は、今日の典型的なラッシュ通勤をする労働者である。彼は暗くなってから、まだ返信しなければならないEメールとともに帰宅する。。家族と感情的に関わるにはあまりにも疲れ切っており、寝る前にワインを飲むこと、テレビを観ること以上する気になれない。ここで重要なことは、ワインを飲むことやテレビ鑑賞が「低い」活動であるかどうかではない。労働者がほかのことを選ぶための時間とエネルギーが奪われていることにある。

私たちは、雇用可能性のプロジェクトや経済的ニーズに直接寄与していないにせよ、ある活動が価値や意義を持つかの判断基準を掌握できていない可能性がある。余暇の堕落に関するアドルノの指摘の現代的代表例を、2014年の「The Lego Movie」に見ることができる。勤務外において、映画の主人公――エメットと呼ばれる平均的な人間――は、その時間のほとんどをソファに座り、「Everything is Awesome」(レゴワールドに同等な、ファレル・ウィリアムスによる「幸福」)と呼ばれる浅いポップ・ソングを聴きながらテレビ広告に没頭し、「Where Are My Pants? 」というコメディに熱心にチャンネルをあわせる。エメットは毎日決まった時間にシャワーを浴び、歯を磨き、運動する。その後、同じ交通渋滞にはまり、同僚と空虚な同じ会話をし、唯一の親友――植木鉢の植物――の待つ家に帰る。この批判が、まさに資本主義それ自身の文化産業から生まれた(そして本質的にこれはレゴ社の数百万ドルの広告である)という皮肉を大目に見るならば、私たちはThe Lego Movieに現代生活の本質についての予見的イメージを見ることができる。

労働の延長としての自由時間というアドルノの広い指摘は、ラップトップやスマートフォンなどのネットワーク技術が、労働が以前は存在しなかった歓迎されざる生活領域に侵入することを可能にする21世紀に、まさしく文字通りの変化を与えている。メリッサ・グレッグは、今日の多くの労働者の、労働日の時間的空間的な拘束からの自由が、現在では永遠に終わらない厄介な「To Doリスト」の形をとって、いかに労働に破壊されてきたかを研究した。グレッグはオフィス労働者とのインタビューを通じて、同期的なコミュニケーションにもっとも適した設計であるEメールやインスタント・メッセージといったテクノロジーが、今日の忙しい会社員、すなわちオフィスにいる、いないを関わらず、つねに参加し、代表し、応対可能であることにプレッシャーを感じる会社員にとって、究極的にいかに逆効果を与えているかを示している。The Grindstoneというウェブサイトのキャリア情報の記事は、多くの専門家が絶えず呼び出し対応していることを示唆している。ある読者はこう書いている。

困難に直面したクライアント、携帯電話やスカイプを介した質問に即座に対応することで、潜在的危機をおだやかな小さな問題へと変えることができる。「休暇中でした」という言い訳にクライアントは寛容ではない。もし私たちが遂行しなければ、つぎの休暇は自宅でアヒルちゃんと一緒に入る熱い風呂になるだろう。

彼らの持つラップトップと同じく、今日組織に高くコミットメントしている労働者たちは、つねにスタンバイ状態を維持していなければならないようだ。

雇用可能性の圧力

日常生活を植民地化するという労働の傾向についてのアドルノの広い概念は、今日ほど妥当かつ広範に適応されることはなかった。自由時間の断片化と労働日の制限外への漏出だけではなく、現在では、失業中の人々にとって、さらには支払われる雇用世界に足を踏み入れていない若者たちにとっても自由時間が危険にあるのだ。これは雇用可能性の新しい圧力が原因である。すなわち、おのおの個人が訓練や教育資格、ネットワーク形成、適切な人格を示す方法を学ぶこと、雇用主の価値観に合った人生経験を積むこと、これらによって自分の可能性を改善する責任のことである。雇用可能性の概念は、国家と雇用主がもはや市民に持続的で保障された仕事を提供することにコミットせず、責任があるとみなさなくなった、新自由主義的政治哲学の要である21世紀初頭に異常なまでに顕著となった。新自由主義的政策を支持するこれら政治家は、賃金の支払われる労働を称賛すると同時に、伝統的に市民を労働市場の不確実性から防護してきた社会的保護を解体した。このコンテクストにおいて、雇用可能性における個人の労働能力は、国家と個人の繁栄の要として理解されるようになった。

雇用可能であり続けなければならない圧力は、未来は保証されないものだと人々が感じるときに一層強くなる。1990年以降、リチャード・セネット、ウルリッヒ・ベック、ジグムント・バウマンらの著名な社会学者が、資本主義社会が不安定な時代に突入したという考えを広めた。もっとも不安定なのは、労組によって保護されない人々、生活必需品を買えないほど低賃金の人々、借金の落とし穴を抜けだせない人々、医療、産休、まともな失業手当などの社会保障から切り離された人々である。この不安定状態には、不法滞在の移民労働者、違法就労者、低賃金労働者、受給資格喪失を恐れるひとり親さえも含まれている。また、短期契約、転勤、就職活動で埋め尽くされた未来に直面する可能性のある創造的あるいは学術的な労働者にまで拡大している。実際、脆弱性precariousnessは、賃金に自らの生存を依存するだれにとっても基本的な条件であると主張できるだろう。エンゲルスは、マンチェスターでの労働者階級に関する1840年代の研究において、労働者らが経済的条件のもと余剰の存在になるという恐怖のなかで長く生きてきたことを私たちに思い起こさせる。「[イギリスのプロレタリアートは]、将来、彼のスキルによって稼げるという保証、生活に必要な分だけでも稼げるというわずかな保証さえなかった。すべての商業的危機、すべての主人の気まぐれによって彼は労働から追放されうる」。今日の社会では、ゴルツが「一般化された不安generalised insecurity」と呼ぶ状況にますます多くの人々が暮らしており、自らが潜在的に失業者だったり不完全雇用である、あるいは潜在的に不安定であるか一時労働者であることをかなりの程度認識している。

この社会的および政治的状況において、失業と、低質で低賃金の労働の災禍から逃れることはますます個人の責任とされている。多くの人々にとって、雇用可能性の構築はそれ自体が生涯にわたる職業のように感じられるだろう。すなわち、ほとんどの人々は「自己の労働力を売る可能性は、新しく再生産するために絶えず行われる、賃金の払われない、自発的な、見えざる労働に依存する」ということを理解している。雇用可能性は子どもたちの精神すら支配する。私は12歳の少年がかつて、彼の学校の反喫煙プログラムの研究支援をしていたときにこう言ったことを思い出す。私が彼にこのプログラムをどうして選んだかと訪ねた。彼は「履歴書の見栄えがよくなるだろうから」と答えた。このことは、伝統的に「非-仕事」とみなされていた生活分野でさえ、支払われる労働の要求の延長として見られることができるというアドルノの確信に立ち戻らさせる。ここでの懸念は、人生の楽しみがますます労働市場のための個人的養成に従属しているということだ。雇用可能性の開発が実質的に必要であり、最大の精神的関心事であるとき、私たちはますます本質的に価値があるか(たとえば、それらが自分の個人的能力を発展させる、友情を豊かにするとか、そうすることが単に大好きだから)ではなく、何がなされる必要があるかを考えるようになる。おのおの個人の定義する真実や善、美といった基準を純粋に満たすことを目的とする、自律的な活動の時間はますます少なくなっていく。

1930年代、バートランド・ラッセルは一連のエッセイを書いた。そこで彼は美しく書かれた文章で、休息、遊び、熟慮、学習の本来的価値を思い起こさせ、現代生活の性急で道具的な生活を嘆いた。彼の中心的懸念は、十分な余暇の時間がなければ、人間は夢想の感覚を失い、人生の喜びの多くから切り離されてしまうということだった。

かつては、ある程度は効率性のカルトに制限されていた、陽気さと遊びの能力が存在した。現代の人間は、すべてがなにか別のもののために行われるべきだと考えており、決して自分自身のために行われるべきだと考えない。

現代社会の人々はつねに自分以外のためになにかをしているという提言は、今日の雇用可能性の言説を指しているといっていいだろう。すなわち、私たちに現在の経験と楽しみに集中させることなく、未来の目標に適うためにいまの時間を用いることをますます考えさせる雇用可能性である。向上心ある個人は雇用可能性の戦略を勉強する必要があるが、一方でだれもがそれを勉強してきたことに注意すべきである。もっとも成功したプレイヤーは、過去の実績、そしてこの実績と雇用世界との関連性について、確信をもって明快な説明を構築することに精通している。求人応募用紙では、価値があると思われる活動は、雇用可能性の言語で再構成される。すなわち、ホームレスへの慈善活動は、ボランティア部門での経験を与えたので言及されなければならず、ヨーロッパでのヒッチハイクは、イニシアチブをとり問題解決する能力を育んだとして言及されなければならない。

各労働者はつねに今より良い存在になれると教え込まれる。雇用可能性は、パーソナリティや業績の適合性についてつねに疑問をいだき、自分の時間を分別良く過ごすことにまったく満足のできない、旅人が永続的に自己に宣戦布告する悲劇の道となる。雇用可能性の言説の遵守は、部分的には、行為や来歴をつねに見通す、未来の雇用主という想像的人物によって確実にされる。コリン・クレミンは、この心理的幻影を「万人のボスthe boss of all」と呼んだ。これは将来の雇用主とその期待の一般化された幻影であり、人々の現在の行動と選択を制限する。万人のボスは、容易には感心しない、厳格で徹底した人物である。彼は持続的な責任ある労働、合理的な意思決定、自己管理を要求する。労働者があまりに異なる地域で多くの仕事をしている場合、万人のボスは彼女を風変わりで、決断力がなく、専門性がないとみなすかもしれない。しかし、同じ労働者が同じ仕事にあまりに長い間苦労していると、万人のボスは彼女が独りよがりな、野望のない、見通しの狭すぎる人物だと決めるだろう。これを読む若い学者たちは、アカデミアで学ぶだろう、万人のボスの黄金率は、私の旧友が笑いながら言うように、従業員候補者はつねに「積極的研究research active」、「一度でもゲームから脱落したら終わり」でなければならないことを。アドルノは、熱烈な労働者のますます緊張するコンフォーミズムに言及するとき、1950年代にすでに想像的ボスについての同様のほのめかしをしている。

失業者から著名な人物にいたるまで、つねに投資者の怒りを招くことから逃れられないすべての神経質な人々は、共感、勤勉、有用性、芸術と策略、商人の資質によってのみ、彼らが偏在すると考える重役の機嫌を伺うことができると信じている。そしてたちまち、「コネクション」とはみなされない関係はなくなり、事前に許容範囲から逸脱されているか検閲されない衝動はなくなる。

経済的生存が、必死に働くこと、個人的利益を顧みないこと、遠くへ通勤すること、明日の会議のために深夜に準備することを意味する場合、このことがなされているのである。求人広告と大卒者採用プログラムのレトリックを考慮し、コステアらは、雇用可能性の言説は労働者に「終わりなき潜在可能性」という感覚を休みなく引き起こすことを示唆している。おのおのの労働者は、つねに「今以上」になれると教え込まれ、雇用可能性は、パーソナリティや業績の適合性につねに疑問をいだき、自分の時間を分別良く過ごすことにまったく満足のできない、旅人が永続的に自己に宣戦布告する悲劇の道となる。被雇用者モデルのイメージにあわない個人的特徴――シャイ、落ち込んだ気分、繊細な感情――は、無害で、信頼でき、理解しやすい、とりわけ雇いやすいような、売れる自己としてアピールするよう取り繕わなければならない。雇用可能性は、利益のためになされた個人的犠牲が、ある意味では自主的であるために、新たな権力のダイナミクスを具現化する。ボスの強制的な規律と技術的管理によって行われる、時間内に制限され、外的に課される伝統的な搾取とは異なり、雇用可能性の要求する規範は持続的であり、つねに一定の自己管理を要求する。雇用可能性は、以前は搾取が時計によって制限されていた空間的および時間的境界が解体されたために、人々がほとんど自発的な形態で服従することを強制される搾取形態の「脱中心化」を表している。

おそらく、主流の教育システムほど、労働関連の要求による人生の植民地化が明白であり当惑させるものはないだろう。もっとも広い意味で定義された教育には、幅広い個人的および公共的利益を提供することができる。すなわち学生の道徳的政治的意識を養うこと、批判的思考と熟慮の習慣を育成すること、より崇高で複雑な文化の喜びを味わうよう発展させること。教育はまた、人々がよりエンパワーされ、依存が少なくなり、自分自身、周囲の環境やお互いに面倒を見ることができるために必要な広く実践的なスキルを教えることができるだろう。これらすべては教育者にとって正当で重要な目標である。しかし、今日の教育のもっとも広く受け入れられた目標は、人々を被雇用者のグループへと階層化し、若者たちを労働役割の想定に準備させ資格付けするというはるかに狭い目標でしかない。ふたたび、ラッセルに戻ることができる。彼は1930年代に、経済的価値が学習の広い価値が覆えされたとすでに主張していた。

過去150年にわたり、人間はますます「無用な」知識の価値に疑問を抱くようになり、コミュニティの経済的生活の一部に適用できる知識のみに持つ価値があると信じるようになった。

「無用な知識」という言葉がラッセルが直接的には経済的、社会的有用性を言及しているのではないとしても、物事を知ることが人生を豊かにできうる限り、必要不可欠な特徴をもっていると彼は主張する。私たちが興味を持つとき、人生はより満足感が得られるのであり、何が私たちにとって興味深いものであるかはこの観点からはほとんど重要ではない。映画史を知ることは、その人の映画の楽しみを増すかもしれない。コンピューターの改造を学ぶこと、衣類を裁縫すること、自転車を修理すること、アジア料理の調理法を学ぶことは、それ自体が喜びである。ラッセルはアプリコットの風変わりな例をあげる。中国漢王朝における栽培の起源と議論について学ぶたびに、アプリコットの味が少しずつ甘くなったと彼は言う。経済的に有用であるのと同時に、知識は生きる喜びjoie de vivreであり、それ自体が精神的喜びの根源であるとラッセルは信じた。

ラッセルは、労働のための準備と資格付けを目的とした狭い教育ではなく、広く一般的な教育の価値を擁護した急進的著者のひとりである。この主張の特筆すべき支持者は、「持つhaving」様式の学習と「あるbeing」様式の学習を明確に区別したエーリッヒ・フロムである。雇用可能性の圧力は、最初の様式の学習をするよう学生たちを促すかもしれない。持つ様式で学習した学生は、講義の要点を勤勉に記憶するだろうが、「内容は彼ら自身の個人的思考システムの一部とはならず、それを豊かにすることも広げることもない」。彼らの学習との関係は、獲得するようなものである。すなわち、彼らは知識を吸収して一体化integrateするのではなく、試験に合格し、資格を得るまで知識を所有しようとする。知識は維持されるが、学生たちは学習に深く関わることはなく、またそれを用いて独自の問題に取り組むこともない。学習の主なコンテクストは不安である。これは、より生き生きと「ある」様式で学習する学生とは真逆である。知識を持つ学生たちと違い、これらの学生は心から学習に専念する。「聴くことが、彼ら自身の思考プロセスを刺激する。新しい疑問、新しい概念、新しいパースペクティブが精神に生じる。彼らの傾聴は、生きたプロセスなのだ。」

フロムとラッセルの双方にとって、教育の究極目標は、学生にあれやこれの知識の小さな塊を学生に与えるのではなく、彼らに精神の瞑想的習慣を育むことであるようだ。教育は、学生に人生全般の広範で人間味のある見通しを引き出すものでなければならない。

必要なのは、あれやこれやの特定の情報断片ではなく、人間の人生全体の目的の概念を刺激するような知識である:芸術と歴史、英雄的個人の生き様を知ること、そして宇宙における人間の奇妙に偶然的で一時的な位置づけに関する理解――これらすべては、人間に際立つ誇りの感情にふれるものであり、見ることと知ること、誇り高く感じること、理解をもって考えることの力にふれるものである。

現在、ラッセルの述べる広い教育は、大学内に閉じ込められるか、社会の特権的メンバー――生計を立てる差し迫った必要に制限されないため、自由に勉強できる人々の集団――に限られる傾向がある。今日の労働市場の圧力が意味するのは、完全な、生涯の喜びとみなされる知的発達と文化的活動を実際的に楽しむことのできる人がほとんどいないということだ。労働倫理は、芸術に関する予算(と、放浪者bohemiansたちが歴史的に非公式に芸術予算として利用してきた失業給付)の削減により、文化的創造者たちが技術を磨き、おそらくはそこから生計を立てる方法を見つけるために数年間飛び立つことはますます困難となっている。

大学の胸中から離れるにつれ、多くの学生たちは、もはや卒業したというだけでリスクや不確実性から自由とはいえず、以前考えたようには低賃金や低技術の労働から保護されるのではないことを認識してゆく。この不確実性の風潮は、いかに未来を保証のあるものにするかについて、実際的に、道具的な方法で考えること、積極的に雇用可能性に取り組むことに重点を置かせる。さらに、授業料高騰と奨学金廃止によって生じた学生借金は、労働による犠牲と、よい収入による利益のトレードオフを熟慮する機会を得るよりずっと前に、若者たちを稼ぐ必要に縛りつけている可能性がある。予測では、英国では、2011年にコースを開始した学生は、卒業までに平均して23000ポンドの借金が生じ、最新の授業料上昇を考慮すると、2012年の入学者については53000ポンドにも上る。ベラルディは、学生ローンをファウストと悪魔の契約と比較する。知識と資格を引き換えに、学生は自らの行動を制限し、労働の義務に縛り付ける結果となる借金に合意する。競争力のある卒業生と同様、借金漬けの卒業生はより簡単に丸め込むことができ、今日の労働市場における、多くはスキルの発展や将来の雇用を保証しない、数千もの賃金の支払われないインターンシップのための理想的なエサとする。

究極的に、雇用可能性の圧力は、高度資本主義社会における「内面性の喪失」についてのマックス・ホルクハイマーの嘆きをもたらしている。「想像力の翼があまりにも早く切りとられた」社会では、個人はますます世界や他者に対して実際的で道具的な指向性へと強制される。内面性の喪失の副作用は、私たちが、雇用可能性や経済的必要に直接貢献しないものであっても、なんらかの活動に価値と意義があると判断する基準を把握できなくなる可能性である。ゴルツは疑問を投げかける。「私が真に自分自身である、つまり外的諸力と外的影響の生産物や道具ではなく、自分の行動、思想、感情、価値観の創造者であるときはいつなのだろうか?」。非-労働が単なる労働の延長――回復のための、自分に麻酔をかけるような製品やエンターテイメントを消費するための、雇用可能性を合理的に養うための時間――に過ぎない社会において、私はこの質問に答えることが、心配になるくらい難しくなっていると考えるのである。

1 Comment

  1. 非常に鋭い指摘ですね。考えさせられる点が多くありました。
    特に、子供がボランティアする動機が履歴書というのは、ぞっとしました。
    今後、トークンエコノミーが加速すると、自分が心から求めている(経済的な価値のない)ことよりも、
    評価されやすい将来性と実用性の高い物事に取り組む事例が増えるのではないかと思いました。

    意識的に両者を分けて過ごすなり、考えるなりしないと洗脳されていることにも気づかなくなりそうです。
    私もさらに考えを深めていきたいと思います。
    良い記事を共有して頂き、ありがとうございました。

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