2020-01-20

道教者にとって、生活技術はシンプルさ、主張のないこと、創造的遊びのなかにある。

Joshの「Anarchism and Taosim」を訳しました。平易な内容でアナーキズムと道教いずれの入門にもピッタリです。

道徳経などの引用部分は書き下し文を、荘子についてはLin Yutangの英訳からの樺山三郎氏の日本語訳を引用しています。

筆谷等観 「春耕」

アナーキズムと道教

アナーキズムは近年の西洋的現象だとふつう考えられている。しかしそのルーツは東洋古代文明の深くまで至っている。最初のアナーキズム的感情の明確な表出は、紀元前6世紀頃の古代中国の道教にまでさかのぼることができるだろう。実際、主要な道教作品である道徳経は、もっとも偉大なアナーキズム古典のひとつと考えることができるかもしれない。

当時の道教者は、法がさらに体系化され、ますます中央集権化され官僚化された封建社会に生きていた。孔子はそれらの発展を助ける律法主義的学派の最重要の言論家であり、すべての市民が自分の身分をわきまえる社会階層を求めた。道教者は政府を拒絶し、万人が自然で自発的な調和のなかに生きることができると信じた。干渉をしたい人々と、放っておかれたときに物事が最良になると信じる人々との対立はこのときから続いているのである。

道教者と儒者はともに古代中国文化のなかに組み込まれていた。いずれも同様の自然観を有していたが、道徳的、政治的見解は大きく異なるものだった。いずれも人間の本性に対して敬意ある信頼を持つ傾向があり、キリスト教の原罪概念はその思想にまったく存在しない。両者とも、人間には善への内的傾向があると考えた。そのことは井戸の中に落ちそうな子どもを見たときにだれもが持つ本能的反応によって明らかになるのである。両者とも、道、あるいは古えの教えを守ることで自発的秩序を確立しようとした。

しかし、道教者が主に自然に関心を持って自己同一化していたのに対し、儒者は社会を改革することに関心を持ち、より世俗的だった。儒者は伝統的に義務や規律、服従といった「男性的」美徳を称賛したが、道教者は受容性や受動性といった「女性的」価値観を奨励した。

儒教や仏教と同じくらい中国文化形成の助力となった道教であるが、その性質上、公的なカルトにはなりえない。道教は中国思想の永続的な緊張のままであり続けた。道教は中国文明の夜明けの主要文化にルーツを持つが、それが哲学、宗教、原始科学、魔法の驚くべき結合体として登場するのは紀元前6世紀のことである。

道教の最重要の提唱者は「老哲学者」を意味する老子であるとされる。彼は紀元前604年頃、湖南省の貴族の家庭に生まれた。彼は貴族としての世襲的地位を拒絶し、周の書庫の記録官となった。彼は生涯、沈黙の道をたどった――「語られる道は永遠の道ではない」と彼は教えた。伝説によれば、彼が死地へ向かうために砂漠を駆ろうとしたとき、中国北西部の門番に、彼の教えを書き留める説得されたのだという。

しかし、老子の著作となる道徳経は紀元前3世紀まで書かれなかったようである。それは中国学者のジョセフ・ニーダムが「一章の例外もなく、中国語でもっとも深遠で美しい作品」と呼んだものである。文章は詩句による81の短い章で構成されている。しばしば非常に曖昧で逆説的ではあるものの、道徳経はアナーキスト原則の最初期のものであるばかりか、もっとも雄弁な説明を提供する。

道教の自然哲学を理解することなくその倫理と政治を理解することは不可能だ。道徳経は道を、道すじや本質として称賛し、聡き人々がどのようにそれに倣うべきかを説明する。道教の自然概念は古代中国の陰陽原理に基づいている。陰陽とは、宇宙におけるふたつの対極の、しかし相補的な諸力であり、森羅万象を形成する気(物質的エネルギー)を構成する。陰は最高の女性的力であり、闇、冷たさ、受容性を特徴とし、月に関連している。陽は明、温かさ、活発といった男性的な対象物であり、太陽と関連を持つ。両者の力は男性と女性と同様、すべての事物のなかで働いている。

しかし道それ自体は定義できない。名前はなく形もない。老子は言い表せないものを表そうと、道を空の容器、海へと流れる川、彫られる前の丸太に例える。道は自然に従うと彼は断言する。道は宇宙がはたらく法則であり、すべてに存在を与えそれを支える自然秩序である。

大道は汎(はん)として、其れ左右す可(べ)し。萬物之を恃(たの)みて以(もつ)て生ずれども而も辭(じ)せず。功成って而も有せず。

The great Tao flows everywhere, both to the left and to the right.
The ten thousand things depend upon it; it holds nothing back.
It fulfills its purpose silently and makes no claim.(第三十四章)

ニーダムはそれを力であるというよりも、「時間と空間の自然な湾曲の一種」と表現している。

ほとんどの後のアナーキストのように、道教者は宇宙が永続的な流動状態にあると見ている。現実は、すべてが変化し、なにも一定ではない過程の状態にある。彼らはまた、対立する力とのダイナミックな相互作用としての変化の弁証法的概念を持っている。エネルギーは陰陽の極の間を絶えず流れる。同時に、彼らは自然の団結と調和を強調する。自然は自己充足的ではないし、創造されたものでもない。意識をもつ創造主を前提する必要はない。これは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスを想起させるだけでなく、現代物理学の示す宇宙の説明と一致する見解である。多様性、有機的成長と自然秩序の統一を重視する現代社会生態学はさらに道教的世界観を反映している。

老子と道教者が推奨する自然へのアプローチは、受容である。儒者が自然を征服し利用しようとするところ、道教者は熟考して理解しようとする。道教者の伝統的な自然への「女性的」アプローチは、彼らの思想が第一に母権的社会で発展しただろうことを示唆している。一見それは宗教的態度に見えるかもしれないが、実のところ道教者のあいだでの科学的民主的な態度を奨励したのである。自らの先入観を押し付けないことによって、自然を観察し理解し、そのエネルギーを有益に導くことを学んだのだ。

道教者は主に自然に関心をもったが、彼らの宇宙概念は社会にとって重要な結果をもたらした。倫理と政治の明確な体系があらわれた。絶対的な道教的価値観は存在しない。善と悪は、陰と陽のように相関しているからである。その相互作用は発展のために必要であり、しばしば物事を達成するためにはその対極からはじめるのが良いとされる。それでもなお、賢人の理想は道教の教えにあらわれる。見栄を張らず、誠実で、自発的で、寛容で公平である。道教者にとって、生活技術はシンプルさ、主張のないこと、創造的遊びのなかにある。

道教の教えの中心にあるのは無為の概念である。多くの場合、これは単に「非行動non-action」と訳される。実のところ、「アナーキズム」と「無為」には著しい言語学相似が見られる。ギリシャ語における「an-archos」が支配者の不在を意味するように、無為は為の不在を意味する。そして為とは「自然で自発的発展を妨げる人工的で不自然な活動」を意味する。政治的な観点からは、為は権威の強制を指す。つまり無為にしたがって何かを行うことは自然であり、そのことは自然で自発的な秩序を導くと考えられる。それは強制された権威のあらゆる形態とは無縁のものなのである。

道徳経は力の性質についてまったく明確である。肉体的だろうと道徳的だろうと、自らや世界を改善するために力を用いると、エネルギーを無駄にするばかりか、自分自身を弱める結果となる。「物は壮(さかん)なればすなわち老ゆ。force is followed by loss of strength’(第三十章)」。したがって、争いをしかけるものはその結果に苦しむことになる:「強梁(きょうりょう)なる者はその死を得ず(第42章)‘a violent man will die a violent death’ 」。対照的に、譲歩することがしばしば打開するための最良の道となる。「天下に水より柔弱(じゅうじゃく)なるは莫(な)し。而(しか)も堅強(けんきょう)を攻むる者、これに能(よ)く勝る莫し。その以(も)ってこれを易(か)うるもの無きを以ってなり。弱の強に勝ち、柔の剛に勝つ ‘Under heaven nothing is more soft and yielding than water. Yet for attacking the solid and strong, nothing is better; it has no equal. The weak can overcome the strong; the supple can overcome the stiff.’(第78章)」。道教者が説く穏やかな平和は、敗北主義的服従ではなく、エネルギーの創造的で効果的な使い方を求めるものである。

「無為を為(な)し、無事を事(こと)とす ‘Practise non-action. Work without doing’ (第63章)」ことを老子は説く。無為の概念においては、道教者は惰性の意味での非行動を勧めるのではなく、むしろ自然に反する行動を批判しているのである。彼らが称賛するのは怠惰ではなく、努力や不安、複雑さなしに働くことである。人々が無為を正しい精神で実践したとき、仕事はその強制的な側面を失う。有用な結果のためではなく、その本質的な価値のために行為がなされる。労働は疫病のように忌避されるのではなく、自発的で意義ある遊びへと変わる。「悠(ゆう)としてそれ言を貴(おも)くすれば、功は成り事は遂(と)げられて、百姓(ひゃくせい)は皆我自ら然(な)りと謂(い)う。‘When actions are performed Without unnecessary speech, People say, “We did it!”’(第十七章)」

もし人々が助言にしたがえば、彼らは長生きし、肉体的精神的健康を達成すると道教者は言う。彼らの根本的信条は、「不道は早く已(や)む‘whatever is contrary to Tao will not last long’(第五十五章)」ということであるが、一方で美徳に満たされた者は生まれたばかりの子どものようであるという。道教者は寿命を伸ばすために、ヨガのような技法や、錬金術さえ用いた。

しかし彼らの教義の中心にある最重要の原則は、「天下を取るは、常に無事を以ってす。その事有るに及びては、以って天下を取るに足らず。 ‘The world is ruled by letting things take their course. It cannot be ruled by interfering.’(第四十八章)」という信念であった。無為への道教者の観点のもっとも深いルーツは、おそらく古代中国の母権的社会にあっただろう。道教者の理想は、人間が人工的階級文化を発展させるなかで失った自然との本能的一体性を取り戻そうとする、一種の農業集産主義形態だった。農民は多くの点で自然的に賢明である。過酷な経験により、植物を育てるためには、自然に反する行為をするのではなく、自然の過程を理解し協力しなければならないと彼らは気づいた。そして、植物がその本性にしたがって育つときにもっともよく育つように、人間もまたもっとも干渉されないときに栄えるのである。この観点から、道教者はすべての形態の強制権威、政府、国家を拒絶した。そしてそのことが道教を近代アナーキズムと社会生態学の先駆者とした。

道教は国家を人工的組織として拒絶するのではなく、家族とアナロジーである自然制度とみなしているとしばしば主張されてきた。道徳経は疑いなく権威主義的支配を拒絶しているが、ときに支配者によりよい支配を行うための助言を与えているようにも読める。

ここを以って民に上(かみ)たらんと欲すれば、必ず言(げん)を以ってこれに下り、民に先んぜんと欲すれば、必ず身を以ってこれに後(おく)る。ここを以って聖人は、上に処(お)るも而(しか)も民は重しとせず If the sage would guide the people, he must serve with humility. If he would lead them, he must follow behind. In this way when the sage rules, the people will not feel oppressed(第六十六章)

ブクチンは、道教はエリートによって農民たちに選択と希望を否定することで受動性を育むために利用されたとさえ主張している。

老子が指導者の問題に取り組み、真の賢人に人民の上ではなく人民とともに行動することを求めているのは事実である。最高の支配者は平和的生産的行動をさせるために、人民を放っておくものである。「信足らざれば、焉(すなわ)ち信ざられざること有り‘He who does not trust enough will not be trusted.’(第17章)」であるから彼は人民の誠実さを信じなければならない。統治者が人民を放っておき、好きにさせるよりも、彼らに干渉したときに混乱が生じる:「国家昏乱(こんらん)して、忠臣有り ‘When the country is confused and in chaos, Loyal ministers appear.’ (第十八章)」。秩序ある社会では、

人は地に法(のっと)り、
地は天に法り、
天は道に法り、
道は自然に法る。
Humans follow the earth.
Earth follows heaven.
Heaven follows the Tao.
Tao follows what is natural.
(第25章)

しかし仔細に読むと、道徳経が支配者にマキャベリアン的な助言を与えること、また「統治技術」にさえ関心がないことがわかる。道を真に理解し、それを政府に適応した者は、最良の政府はまったく統治しないという不可避の結論に達する。老子は政府から生じるものに悪以外見ていないのである。実際、彼は最初のアナーキスト・マニフェストとされうるものを提供している。

それ天下に忌諱(きき)多くして、
民弥々(いよいよ)貧し。
民に利器多くして、
国家滋々(ますます)昏(みだ)る。
民に知恵多くして、
邪事(じゃじ)滋々起こる。
法令滋々彰(あき)らかにして、
盗賊多く有り。

故に聖人は云(い)う、
我(わ)れ無為にして民自(おのずか)ら化(か)す。
我れ静を好みて民自ら正し。
我れ無事にして民自ら富む。
我れ無欲にして民自ら樸(ぼく)なりと。

The more laws and restrictions there are,
The poorer people become.
The sharper men’s weapons
The more trouble in the land.
The more ingenious and clever men are,
The more strange things happen.
The more rules and regulations,
The more thieves and robbers.

Therefore the sage says:
I take no action and people are reformed.
I enjoy peace and people become honest.
I do nothing and the people become rich.
I have no desires and people return to the good and simple life.
(第五十七章)

道徳経のすばらしい詩の中には、非常に現実的な社会批判がある。それは封建秩序の官僚的、戦争的、商業的性質に対する鋭い批判である。老子は明確に財産を強盗と見ている。「朝(ちょう)は甚だ除(きよ)められ、田は甚だ蕪(あ)れ、倉は甚だ虚(むな)しきに‘When the court is arrayed in splendour, The fields are full of weeds, And the granaries are bare.’(第五十三章) 」。彼は戦争の原因を不平等な分配に見る:「富貴にして驕(おご)るは、自らその咎(とが)を遺(のこ)す ‘Claim wealth and titles, and disaster will follow ’(第九章)」。階級と私有財産の点で封建制を非難して、老子は人々が自然と調和しながらシンプルに誠実に生きる、政府や家父長制のない無階級社会の理想を提示した。それは適切な技術の助けによって集団的に物品が生産され共有された脱中央集権化された社会になるだろう。人民は強くなるが、強さを示す必要はなくなる。賢明だが、学問をすることはない。生産的だが、不必要な労力はかけない。台帳に書くより、縄を編む方を好むだろう。

小国寡民(しょうこくかみん)。
什伯(じゅうはく)の器(き)有るも而(しか)も用いざらしめ、
民をして死を重んじて而して遠く徙(うつ)らざらしめば、
舟輿(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、これに乗る所無く、
甲兵(こうへい)有りと雖も、これを陳(つら)ぬる所無なからん。
人をして復(ま)た縄を結びて而してこれを用いしめ、
その食を甘(うま)しとし、その服を美とし、その居に安んじ、
その俗を楽しましめば、隣国(りんごく)相い望み、
雞犬(けいけん)の声相い聞こゆるも、
民は老死に至るまで、相い往来(おうらい)せざらん。

A small country has fewer people.
Though there are machines that can work ten to a hundred
times faster than man, they are not needed.
The people take death seriously and do not travel far.
Though they have boats and carriages, no one uses them.
Though they have armour and weapons, no one displays them.
Men return to the knotting of rope in place of writing.
Their food is plain and good, their clothes fine but simple, their homes secure;
They are happy in their ways.
Though they live within sight of their neighbours,
And crowing cocks and barking dogs are heard across the way,
Yet they leave each other in peace while they grow old and die.
(第八十章)

道教者のアナーキズム的傾向は、紀元前約369年から286年にかけて生きた哲学者、荘子の著作でさらに強くなる。彼の作品は、人間が関する偉大な有機的過程である道の本質を探求する逸話や寓話が組み込まれた議論で構成されている。そこでは特定の支配者の言及はない。道徳経と同じように、すべての形態の政府を拒絶し、自己決定的個人の自由存在を祝福する。この著作の最重要の論調は、馬についての寓話にある。

馬は乾いた大地に生きて草を喰らい水を飲む。喜び満ちると,馬たちはたがいに首をこすり合う。怒れば駆け回り,お互いにかかとで蹴り合いをする。このようにして馬たちは自然の本能のままに過ごす。しかし,おもがい・くつわなどの馬具を付けて杭につながれ,額に月の形のプレートを付けさせられると,馬は不機嫌になり,噛みつこうと首を回し,くびきをつつき,口のくつわをはずそうとし,頭のおもがいをはずそうともがく。こうして馬の気持や動きは(ずるがしこい)盗人のそれに似てくるのだ。これは(馬を調教し始めた)伯楽の罪である。

Horses live on dry land, eat grass and drink water. When pleased, they rub their necks together. When angry, they turn round and kick up their heels at each other. Thus far only do their natural dispositions carry them. But bridled and bitted, with a plate of metal on their foreheads, they learn to cast vicious looks, to turn the head to bite, to resist, to get the bit out of the mouth or the bridle into it. And thus their natures become depraved.
(「馬蹄」)

馬と同様、人間についても同じことが言える。自分たち自身で自然的調和と自発的秩序を生きることができるのである。しかし、彼らが強制され支配されたとき、その性質が悪となる。つまり、君子と支配者は人民に人工的法律への服従を強制するのではなく、自然の性質に従わせるべきだというのである。人間のつくった法律と規則で人民を統治する試みは、「海の上を歩き、川を越える道を切り開き、蚊が山を飛び越える」のと同じくらいバカげており不可能である。現実には、私たちの存在の自然条件は人工的な援助を必要としない。放っておかれた人々は平和的で生産的な活動に従事し、お互いに、また自然と調和して生きていくだろう。

エッセイ「在宥篇LET IT BE, LEAVE IT ALONE(第十一章)」で、荘子はキリストの300年前にアナーキズム思想の根本命題を主張した。

いったい人をあるがままに自由にさせておくといったことはよくあったことだが,人を統治するということはなかった。あるがままにしておくのは人の生まれつきの性質がねじ曲げられないことを願うためだし,自由にさせておくのは人の性格が堕落しないようにと配慮するからである。しかし,人の性質がねじ曲がらずその性格が堕落などしないというのであれば,為政者にとって何をしなければならぬというのだろう(何をすることがあるというのだろう)。

’There has been such a thing as letting mankind alone; there has never been such a thing as governing mankind. Letting alone springs from fear lest men’s natural dispositions be perverted and their virtue left aside. But if their natural dispositions be not perverted nor their virtue laid aside, what room is there left for government?

道教者はしたがって、個人が放任される政府なき自由社会を提唱した。しかし自分の利益を追求するばかりで他者の利益を忘れるというのではない。推奨されるのはぶしつけな利己心ではない。個人の利益の追求には、全般的な幸福への気づかいがある:他者のために行為するほど、彼は多く持つ。他者に与えるほど、彼は豊かになる。道教の書である淮南子にはこう書かれている。「われのいわゆる天下を有(たも)つとは、自得するのみ。いわゆる自得とはその身を全くするものなり。その身を全くすれば道と一つたり‘Possessing the empire’ means ‘self-realization. If I realize myself then the empire also realizes me. If the empire and I realize each other, then we will always possess each other.’」。

人間は究極的には個人であるが、同時に社会的存在であり、全体の一部である。現代生態学の発見を予想するかのように、道教者はより多くの個人性と多様性があるほど全体的な調和が高まると信じた。社会の自発的秩序は、衝突を排除するのではなく、対立する諸力の動的な相互作用を伴うものである。したがって社会は荘子によって次のように説明される。

それは特定の習慣をしたがう一定数の家族および個人の合意である。不調和な要素が加わることで調和的全体を形成する。この統一がなくなるとおのおのが個人性を持つ……。山は個別の部分があるために高い。川は個々の一滴のために大きい。そして全体から見てすべての部分を尊重するのは正しき人である。

an agreement of a certain number of families and individuals to abide by certain customs. Discordant elements unite to form a harmonious whole. Take away this unity and each has a separate individuality… A mountain is high because of its individual particles. A river is large because of its individual drops. And he is a just man who regards all parts from the point of view of the whole.
(ここは私の訳)

つまり道教はアナーキズム思想の最初の、そしてもっとも説得力ある表現のひとつを提供した。その道徳的政治的理念は科学的世界観に深く根ざしている。たしかに道教哲学(Tao chia 老荘思想)は精神的、神秘的な要素を含んでいるが、初期の道教者の自然に対する受容的アプローチは、科学的態度と民主的感情を促したものだった。彼らは自然の多様性と変化の普遍性の統一を認めた。その倫理において、自然のより大きいコンテクストにおける自発的態度と自己発展を推奨した:所有なき生産、主張なき行動、支配なき発展。彼らの政治学においては、支配者に臣民を放っておくよう主張し、儒教の官僚的教義に反対しただけではなく、自然と調和した、自由で協同的な社会を主張したのである。

道教は、エリートが農民を従順でおとなしくすることを目的としてはいなかった。道教者の社会背景は、農民の庶民層と封建領主のあいだに位置する、小規模の中産階級からなる傾向がある。また、彼らは単に強者に屈して、目立たずに、自分の関心事のみ考えて生きることで困難な時代を生き残る助言を提供しただけではない。対照的に、道教は、つかの間の権力、富、地位の持つ真の本質を、根本的に必要なものを見つけだせるのに十分なほど理解した人々の哲学である。道教は、失敗者や平静の哲学とはほど遠いものであり、存在の完全な調和を発展させる者に、深遠で実践的な知恵を提供するものである。

終わりに

いきなり老荘思想をとりあげたのですが、これは最近私の知に対する関心が薄まってきているからです。で、「無知」を説いたほとんど唯一の存在が老子だった。

道徳経を読むと、ブクチンが言うように老子はアナーキストなのか? と思うところがあります。たとえば六十五章では、民を統治するには民を無知にせよ、と説いている。西洋由来の近代アナーキズムからすればブクチンのように「農民の無力化」を目的にしているように思われる。

一方で、ジョッシュの語るように「支配しないことが最良の支配となる」という結論は、道徳経を読んでいると感じる部分でもあります。

ともあれ、道教が女性的であるという点は大いに同意できます。そもそも東洋思想は女性的ですが、儒教と比べて道教はさらに女性的です。これはストア派とエピクロス派の対立関係に似ています。

中国といえば儒教や仏教のイメージがありますが、それはオフィシャルな領域の話で、道教は民衆の宗教として広く愛されていました。文中にあるように「自然の近い母権的社会」で相性がいいのでしょう。儒教は人間中心的であるのに対し、道教は自然的です。

いずれにせよ、「植物がそうであるように、なんら干渉を受けないときに人はもっとも成長する」という考え方は、私も非常に共感するところです。

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